義兵なのか、盗賊団なのか…ソウル西大門殉国先烈追念塔「義兵処刑像」に描かれた義兵の実像に迫る(上)(朝鮮日報 2024/09/16)
〇不十分な検証が生んだ混沌…西大門殉国先烈追念塔

 ソウル市西大門区ヒョンジョ洞の西大門独立公園には「殉国先烈追念塔」がある。毎年、「殉国先烈の日」の11月17日になると、塔の前で記念式典が開かれる。塔は1992年の光復節に、ソウル市が設置した。
  
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▲ソウル市ヒョンジョ洞の西大門独立公園にある殉国先烈追念塔。主な独立運動の八つの場面を、塔の裏側の花こう岩に彫刻した。/朴鍾仁記者

 塔の裏側に設置された大型の花こう岩には「独立闘争の歴史的活動像」を形象化した八つのレリーフが彫刻されている

ところが、これらのレリーフのうちの一つは、独立闘争であったかどうか疑わしい場面が彫刻されている庶民を苦しめた雑犯の処刑場面とそっくりなのだ左から3番目、「独立軍義兵殉国先烈処刑像」は、義兵ではなく、大韓帝国時代に「常習窃盗」と「集団強盗」に手を染めた「強力犯処刑場面」とほとんど同一だ。それ故に、塔が設置された1992年以来32年間、韓国の市民は、民衆を恐怖の中へ追いやった雑犯たちを追悼し、その犯罪行脚をたたえてきた可能性が高い。韓国の学界や政界が正確な史料検証もなしに独立運動史を記録してきた慣行のせいだ。

■殉国先烈の記念塔

 「殉国先烈」とは「国権被奪から1945年8月14日までに独立運動を行って殉国した人」を意味する(『独立有功者礼遇に関する法律』4条)。殉国先烈記念日は、1939年に大韓民国臨時政府が乙巳(いっし)条約(1905年の第2次日韓協約)締結日の11月17日を「殉国先烈共同記念日」に定めて以来、建国後も記念してきた日だ。

 1992年8月15日、ソウル市は、殉国先烈をたたえる殉国先烈追念塔の除幕を行った。高さ22.3メートルの塔には14道を意味する14の太極旗が刻まれている。裏側の幅40メートルの花こう岩には、殉国先烈活動像の浮き彫りが施されている。合わせて八つの活動像は「抗日義兵武装像」「尹奉吉(ユン・ボンギル)・李奉昌(イ・ボンチャン)烈士象徴像」「独立軍義兵殉国先烈処刑像」「柳寛順(ユ・グァンスン)烈士運動像」「三・一独立万歳像」「安重根(アン・ジュングン)義士伊藤博文狙撃像」「殉国先烈義兵逮捕処刑像」「青山里戦闘像」だ。

■独立運動を象徴する各レリーフ

 左端には、義兵活動の様子を撮影した唯一の写真である「楊平義兵写真」をモチーフにした抗日義兵武装像が彫ってある。1907年9月に、「丁未義兵」の活動を記録した英デーリー・メール紙記者フレデリック・アーサー・マッケンジー(Frederick Arthur MacKenzie)が撮影した写真だ。

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 マッケンジーは、義兵との対面をこのように記した。「彼らはいずれも、十八歳から二十六歳くらいまでの青年であった。(中略)六人の者がそれぞれちがった五種類の武器を持っていたが、その一つとしてろくなものはなかった。一人は、もっとも古い型の火縄銃として知られている昔の朝鮮の先込め銃を誇らしげに持っていた。(中略)第二の男は古い朝鮮軍の銃を持っていたが、まったく旧式で、その時代の悪い見本みたいなしろものだった。第三の男もまた同じであった。もう一人は、ちっぽけな先込め銃を持っていたが、それは、父親が、可愛(かわい)がっている十歳くらいの子供にやるような、無害なことうけあいというしろものであった。さらにもう一人は、馬上用の拳銃を持ち小銃弾倉をつけていた。三丁の銃には中国のマークがついていた。それらの銃はいずれも、古錆(さび)がついて腐蝕したものであった」(F・A・マッケンジー著、渡部学訳注『朝鮮の悲劇』〈東洋文庫222〉199-200ページ)。レリーフでは、写真に登場する義兵13人のうち印象的な人物7人を選び出して彫刻した。大韓帝国の軍服を着た指揮官や、子どもっぽい少年兵まで、マッケンジーの見た義兵たちの姿が刻まれている。

 李奉昌・尹奉吉の行動と柳寛順、三・一万歳、安重根、義兵逮捕と処刑、青山里の戦いまで、他のレリーフも当該人物や事件を容易に連想できる場面で構成されている。問題は左から3番目、「独立軍義兵殉国先烈処刑像」だ。この作品では「集団絞首刑に遭った義兵たち」が彫刻されている。朴鍾仁(パク・チョンイン)記者



〇不十分な検証が生んだ混沌…西大門殉国先烈追念塔
  
■「独立軍義兵殉国先烈処刑像」の原本写真

 「独立軍義兵殉国先烈処刑像」では、集団絞首刑に処された韓服(韓国の伝統衣装)姿の人物7人が彫刻されている。丸太をごちゃごちゃと組んで作った処刑台から縄でつるされ、処刑された義兵たちの姿が淡々と描写されている。この場面もまた、モチーフになった写真が存在する。植民時代に日本の記念品店で流通した写真の一つだ。この写真では、追念塔のレリーフに登場するものと似た形の処刑台に、韓服姿の男たちがつるされている。合わせて12人で、まげを結った男の姿も見える。追念塔では、1)写真左側の4人中3人、2)右側の8人のうち左端の髪をそった人物と、まげを結って背中を見せている人物、胸をあらわにした人物を順序を入れ替えて彫刻し、3)柱の後方に重なって見える人物を一人の人物として彫刻し、これを「独立軍義兵殉国先烈処刑像」と命名した。だが、果たしてこれらの人物は「集団処刑された義兵」なのか

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■いつ撮影した写真なのか

 写真そのものに、彼らの正体を知る手がかりが隠されている。まず、この写真はがきの下端には、このように記されている。「韓国風俗:罪人の絞殺」。「韓国」とは、日本が大韓帝国を植民時代の朝鮮と区別して呼んでいた名称だ。この刑執行の時期は、日韓併合が行われた1910年よりも前であることは確実だ

 さらに具体的に見てみよう。この写真は、1904年1月2日から1905年10月26日までの間に撮影された写真だ。期間を確定できるヒントは、背景に見える、白い服と白いカッ(成人男性がかぶる笠子帽)を着用した群衆だ。「白笠」と呼ばれた白いカッは、朝鮮王朝と大韓帝国において国葬時に一般民衆が着用していたものだ。国葬が行われたら1年間は、上下を問わず民は白笠を着用しなければならない。大韓帝国時代に国葬は2回あった。1904年1月2日、憲宗妃洪氏明憲太后が亡くなった(『高宗実録』1904年1月2日条)。その後1年間、大韓帝国皇民は全て白衣と白笠の着用が義務付けられた。この国葬が終わる2カ月前の1904年11月5日、皇太子の純宗妃閔氏が亡くなった(『高宗実録』1904年11月5日条)。そこで大韓帝国の人々は、この日から陰暦で1年が経過した1905年10月26日まで、また白笠と白衣を着用した。従ってこの写真は、1904年1月2日から1905年10月26日までの間に撮影されたもので、刑執行もまたその期間にあった。

■集団処刑された窃盗犯・強盗犯

 ソウル特別市は、この場面を日本軍による義兵処刑場面だと断定し、追念塔に彫刻した。果たしてそうだろうか。別の角度から撮影した写真がある。下の写真は、1906年から07年にかけて朝鮮と満州、日本を旅行したフランスの武官レオ・バイラムの紀行『小さな日本が大きくなった』(Petit Jap deviendra grand、ベルジェ・ルブロー、パリ、1908)の75ページに載っている

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 処刑台の周辺に立っている刑吏たちもまた、白笠と白衣を着用している。朝鮮人だ。処刑場のどこにも日本軍の姿は見えない。

バイラムは「数ページの歴史」と題した章において、日本の侵略部分にこの写真を載せて「日帝の弾圧-絞首刑」と説明した。だが、この写真はバイラム本人が撮影したものではなく、購入した写真だ
バイラムは1906年に大韓帝国へ入国したが、このときは既に国葬が終わっており、通常の服装に戻った後だった。また旧韓末以来、朝鮮の風俗を撮影した写真が印画やはがきとして大量に作られ、日本や西欧で流通した。バイラムの写真の説明は、購入の過程で生じた錯誤あるいは本人の先入観である可能性が高い。当時、朝鮮あるいは大韓帝国を「未開の国」と見なす日本が無作為に作った写真を、西洋メディアが検証もなしに引用し、記事の内容に合わせて勝手に説明を付けたせいだ。
  
 追念塔のレリーフ歪曲(わいきょく)を追跡してきた釜山科技大警察行政学科の李徳仁(イ・ドクイン)教授は「1909年7月12日に司法権が統監府に移るまで、司法権は大韓帝国政府が行使していた」と語った。日本が出版した各種の写真集では、義兵討伐作戦時に逮捕したり処刑したりした朝鮮人の写真については、自分たちがやったということを隠さずに記録していた。

 だとすると、写真に登場する者たちは誰なのか。強盗団、泥棒たちである可能性が高い。死刑は国王の許可事項だ。実録によると、1904年1月2日から1905年10月26日までの国葬期間中、国王の高宗が絞首刑を許可した人間は合わせて144人。高宗は、1904年2月7日に「殺人強盗犯」42人、3月9日に「殺人犯」14人と「強盗犯」6人、「窃盗犯」10人、3月15日に「強盗犯」など27人、1905年7月22日に「強盗、窃盗、殺人犯」45人に対し絞首刑を允許(いんきょ)した(『高宗実録』の各日付条)。このうち、写真に出て来る罪人12人と数字が一致する刑執行は、1904年3月15日の27人のうち、漢城裁判所管轄の罪囚12人だ

 大韓帝国の司法記録である「司法稟(ひん)報」報告書1904年(光武8年)3月17日付によると、罪人の名は任福万(イム・ボクマン)、車善益(チャ・ソンイク)、李致景(イ・チギョン)と崔大有(チェ・デユ)、金学俊(キム・ハクチュン)、韓士秀(ハン・サス)、徐允明(ソ・ユンミョン)、李宝景(イ・ボムギョン)、金竜根(キム・ヨングン)、朴千万(パク・チョンマン)、千応沢(チェ・ウンテク)、鄭竜基(チョン・ヨンギ)の計12人だ。最初の3人は暴力を伴う常習窃盗犯で、残る9人は強盗団だった。執行者は漢城府裁判所検事の尹邦鉉(ユン・バンヒョン)、報告の受領者は大韓帝国法部大臣の李址鎔(イ・シヨン)だった。(『司法稟報』〈乙〉43冊56、奎章閣韓国学研究院)

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▲1904年3月15日、窃盗犯・強盗犯12人の集団処刑執行および名簿を報告した「司法稟報」/奎章閣韓国学研究院


 この面々は3月15日の夜9時(下午九点鐘)に漢城監獄(監獄署)の絞首台で処刑し、翌日その遺体が群衆に公開展示された後、人々に埋葬させた(使之出埋)。他の絞首刑の罪囚らはすぐに埋葬(即埋)処理されたが、この面々は即時の埋葬はされなかった。処刑台の木の柱の近くに、囚人の遺体を運んできたチゲ(背負い子〈しょいこ〉)が見える。

 しかも、3日前の1904年3月12日、大韓帝国の法部(省に相当)から「白昼においても略奪や殺人はひんぱんに起きているので、特別に厳しく取り締まり、処罰せよ」という特命が全国に下されていた(1904年3月12日付『訓令十三道六港一牧裁判所件』。法部『訓指起案』『起案』第11冊〈奎17277の5〉。都冕会〈ト・ミョンフェ〉『1895-1908年間のソウルの犯罪様相と政府の刑事政策』より再引用。『歴史と現実』74、韓国歴史研究会、2009)。この雑犯12人は、そのテストケースになったと推定される。乙巳条約の1年後、大韓帝国の外交はもちろん内治まで実質的に掌握してしまった統監府は「残忍で効果もない公開処刑を廃止せよ」と大韓帝国法部に勧告してもいる(1906年8月26日付『皇城新聞』)。朴鍾仁(パク・チョンイン)記者



〇不十分な検証が生んだ混沌…西大門殉国先烈追念塔

■歪曲の始まり、国史編さん委

 原本の写真からも当時の法律的環境からも、写真の中で処刑された人々は雑犯だ。この面々を義兵だと断定したソウル市や、解放後これまで疑いなしに義兵だと主張してきた韓国の国史学界には、真実が何であるかを調べる義務がある。解放後、この写真を「日本軍による義兵処刑場面」だと最初に主張した国家機関は、国史編さん委員会(国編委)だった国編委は1966年12月、単行本『韓国独立運動史2』にこの写真を載せて「1919年3月、市街で虐殺される万歳示威者」と説明した。写真の中に見える白笠姿の群集、バイラムの旅行日程と本が出た日付を比較してみると、1919年の万歳運動とは無関係な写真であるにもかかわらず、国編委は検証もなしに「三・一運動の犠牲者」と決め付けた。

 また、国編委の同書の同じページには、「1919年3月、日軍警によって虐殺される万歳示威者」という説明と共に、朝鮮人3人が銃殺される場面を収めた写真が載っている

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だがこの写真もまた、1919年ではなく、フランスの雑誌「イリュストラシオン(L'illustration)」において1907年8月10日付で報じられた写真だ同誌の記事には、銃殺刑が行われた場所は「全羅南道潭陽」だと記してある。日本軍の蛮行であることは明らかだが、平和的デモだった三・一万歳運動とは無関係だ(1907年8月10日付『L'illustration』90-94ページ)。
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▲1907年8月10日、フランスの「イリュストラシオン」誌に載った銃殺刑の写真

■歪曲の系譜

 1919年の三・一運動直後に米国で活動した欧米委員部(欧美委員部・欧美駐箚〈ちゅうさつ〉韓国委員会)が、「韓国での日本の残酷行為」という宣伝文書にこの写真を挿入した。欧米委員部は「国際映画サービス(International Film Service)」という業者から2ドル25セントで購入した、と明かした。欧米委員部は、「正当な軍事作戦」だという日本政府の主張を根拠がないと排斥し、これを三・一運動当時の蛮行だと主張した(『大韓民国臨時政府資料集』欧美委員部2、II、宣伝文献類2、フィラデルフィア通信部・韓国親友会発行文献3)。

 国編委はこれを、時期や事件についての検証なしに、1966年の書籍に掲載したのだ。同年出版された『慶南独立運動小史』(ピョン・ジソプ、サムヒョプ印刷社、1966年10月)でも、この写真と上の強盗処刑写真が「三・一運動関連の蛮行」と説明されている。臨政レベルで綿密な検証手続きもないまま作られた宣伝物が、歴史的事実として固まる契機になった。その後、『三・一運動50周年記念論集』(東亜日報社、1969)、在日韓国人学者・辛基秀(シン・ギス)の『韓日併合史』(原タイトルは『映像が語る「日韓併合」史 1875年-1945年』、1987年。韓国版はヌンピッ刊、2009年)をはじめとする韓国国内や海外の出版物で、この集団処刑写真が義兵の処刑場面として完全に固まってしまった。特に『韓日併合史』は、いちいち指摘し切れないほどに誤りが多い。

 このように、独立運動のための誇張あるいは扇動作業の結果物が、これまで検証なしに歴史的事実として断定され、ついには強盗や窃盗犯かもしれない人物をわけもわからず追悼する…というありさまになってしまったのだ。今、責任を負うのは誰か。李徳仁教授は語る。「いくら目的が正当でも手段が歪曲されていたら、その事実の正当性が半減したり色褪せたりすることは避けられない」。闘争も扇動も、事実(Fact)に基づいてこそ勝利できるものなのだ。朴鍾仁(パク・チョンイン)記者