(聯合ニュース 韓国語 2010/03/26)

「遺骨半分は影島の沖合に、残りは日本の母の墓に」と遺言
生前、日本訪問希望も..釜山峰牲病院から28日出棺

在日同胞差別に抗議して日本でヤクザを銃器で殺害した後、無期囚として服役し、永住帰国したクォン・ヒロ(権禧老)氏(金嬉老)が、26日午前6時50分頃、前立腺癌で闘病中の釜山市東莱区の峰牲病院で死亡した。享年82才。

在日同胞2世のクォン氏は1968年2月20日、日本,静岡県で「チョウセンジン、汚い豚野郎」と侮辱したヤクザ2人を銃で殺害した後、付近の旅館で宿泊客を人質にして88時間の間警察と対立したせいで、1975年に無期懲役刑を受けた。

当時、クォン氏は「韓国人差別を告発するために事件を起こした」として、日本警察の謝罪を要求した。

彼は以後、大韓民国で起きたクォン氏帰国運動に力づけられて、1999年9月7日に「日本に再入国しない」という条件で仮釈放され、永住帰国した。

クォン氏は10日前、自分の釈放運動を主導した釜山慈悲寺のパク・サムジュン僧侶に「僧侶のおかげで刑務所で死ぬ人が父の国で安らかに死ぬことができるようになった」としながら「遺体を火葬して、遺骨の半分は祖先の故郷の釜山影島の沖合に撒き、半分は静岡県の母の墓に埋めてほしい」と遺言したと知られた。

クォン氏は最近、日本共同通信とのインタビューで「死ぬ前に母親の墓参りをしたくて来月法務省に訪日嘆願書を出す予定」として「日本訪問が許されるならば世話になった方々にごあいさつしたい」と明らかにするなど、生前に日本訪問を積極的に希望していたことが分かった。

一方、28日午前8時30分に挙行される出棺式に続き、釜山永楽公園で遺体が火葬されれば、遺骨は故人の遺言により処理されると伝えられた。(機械翻訳 若干修正)


(聯合ニュース 韓国語 2010/03/26)

26日、82才で死亡したクォン・ヒロ(権禧老)氏の数奇な一生は、1968年2月20日、日本,静岡県清水市のクラブ『ミンクス』で始まった。

日本暴力組織のヤクザ要員らが借りた金を返せと脅迫して、クォン氏に「チョウセンジン、汚い豚野郎」と悪口を浴びせた、彼は持っていた猟銃でヤクザ親分とその部下を射殺した。

当時、彼の年齢は41才であった。

殺害後、彼は現場から45km離れた静岡県寸又峡の『ふじみや旅館』に逃げて、女性主人と宿泊客13人を人質にして延々88時間の人質劇を行った。

日本で暮らしながらあらゆる差別とボ別を体験した彼は、人質劇を通じて在日同胞の差別問題を浮上させる機会として最大限活用した。

当時、事件は日本社会に途方もない衝撃を与えたし、彼の人質劇はテレビと新聞を通じて生き生きと伝えられて、その間隠してきた在日同胞の人権と差別問題が水面上に浮び上がる契機になった。

人質劇を見守った母親のパク・トゥクスク氏(1998年死去)は、息子に韓服一揃いを渡した後「日本人に捕まって汚く死なずにきれいに自決しなさい」と言い、自身も悲壮な覚悟を見せた。

彼の闘争は、事件4日目に記者に偽装した捜査官によって電撃逮捕されて幕を下ろした。

彼は逮捕された後、女性主人に腕時計を渡して旅館費として使ってほしいとお願いしたことも、彼の人間味を垣間見せた。

クォン氏はこの事件で8年間の長い法廷攻防の末、75年11月に無期懲役が確定した後、静岡拘置所から熊本刑務所に移監されて31年間の刑務所生活をして、1999年に永住帰国、釜山に定着した。

彼の釈放運動には、釜山慈悲寺のパク・サムジュン僧侶が大きい役割をした。

パク・サムジュン僧侶は、1970年から孤独にクォン氏釈放運動を繰り広げていたイ・ジェヒョン氏(ソウル,奉天3洞)と一緒に1990年の10万人署名運動を行い、九州地方更生保護委員会に受け付けさせたし、1993年にも1万3千人余りの署名と釈放要請書を日本法務省に送った。この署名には、キム・デジュン当時平民党総裁とキム・ヨンサム民自党代表も署名した。(機械翻訳 若干修正)


(聯合ニュース 韓国語 2010/03/26)

在日同胞差別に抗議して日本でヤクザを殺害した事件で服役して永住帰国、釜山に定着したクォン・ヒロ(権禧老)氏が26日午前、死亡したという便りが知らされるや、生前のクォン氏を知る市民団体と学界、研究所関係者たちは深い哀悼の意を表わした。

キム・ムンギル釜山外国語大学日本語学科教授は「1999年9月、日本の獄中にあったクォン氏が仮釈放されて韓国に戻ってきた時、釜山の慈悲寺でクォン氏と会って話を交わしたことを思い出す」として「彼は日本で悔しい差別待遇を受ける朝鮮人たちの心情に対してよく話した」と話した。

キム教授はクォン氏に対して「日本で在日同胞の差別と人権に対して異議を提起した先覚者であった」として「最後の彼の望み通り、日本の母親の墓地に行くことができなかったことが残念だ」と付け加えた。

最近、日本,対馬にある親日碑銘を売国奴イ・ワンヨンが書いた、という事実を初めて明らかにしたファン・ペクヒョン渤海ツアー代表は「クォン氏は日本で抑圧されている韓国人たちの誇りを代弁した」として「在日同胞差別に対して闘争した生き証人を送る心情」と話した。

チョ・ヒョンジョン民族問題研究所釜山支部長も「クォン氏が日本で行ったことは民族の正義が生きているという事実を悟らせた象徴的な事件であり、我が国の全国民の誇りを生き返らせた契機であった」と話した。

だが、クォン氏が韓国に戻って見せた一部の行動に対しては、惜しいという反応もあった。

キム・ヒロ釜山市民団体協議会常任共同代表は「日本ヤクザの悔しい差別に殺人を犯して日本歴史上最長期囚になった事実は、日本社会で行われた在日同胞の差別と一緒にクォン氏個人の特性が結びついた複合的な事件として見なければならない」と話した。

引き続き、キム代表は「帰国した後、刑事事件などの芳しくない事は結果的に日本で韓国人差別に抵抗したクォン氏の履歴に大きい汚点を残すことになって非常に残念」と付け加えた。(機械翻訳 若干修正)


韓国では「日本の在日差別と戦った英雄」扱いですね。

金嬉老事件(Wikipedia)

金嬉老事件(きんきろうじけん)は1968年2月20日に39歳の在日韓国人二世の金嬉老(キム・ヒロ、きん きろう:本名(権禧老(クォン ヒロ))が犯した殺人を発端とする監禁事件。寸又峡事件とも呼ばれる。いわゆる劇場型犯罪の最初のケースである。

事件概要

1968年2月20日、手形トラブルが高じて暴力団から借金返済を求められた金は借金返済を約束して静岡県清水市(現・静岡市清水区)のクラブで暴力団員と面会。その場で暴力団員のうち2名をライフルで射殺したのち、翌日には同県榛原郡本川根町(現・榛原郡川根本町)寸又峡温泉の旅館で経営者・宿泊客ら13名を人質として篭城した。金はM1カービン用の30発弾倉を取り付けた豊和工業製の猟銃「M300」とダイナマイトで武装して篭城した。 88時間にわたった篭城の結果、2月24日に金は報道関係者に変装した静岡県警察の捜査員によって取り押さえられ逮捕された。

事件の直接のきっかけは借金返済問題であったが、金がずっと以前に目撃したと自称する警察官による在日韓国人・朝鮮人への蔑視発言について謝罪することを人質解放条件として要求し、それ以外の要求をしなかったため、「差別問題」と絡めて報道されるに至った。

金が篭城する様子はテレビ等で実況され、関連するとされる警察官がテレビに出演するなどもした。また金の母国である大韓民国でも大々的に報道され、金は「差別と戦った民族の英雄」として祭り上げられた。

裁判

(略)裁判中に刑務所内での金に対する特別待遇の実態が判明する。金の独房は施錠されておらず散歩や面会なども自由で脱獄手段に用いられる出刃包丁、ヤスリ、ライターなどを持ち込んでいた。これは金が自殺をほのめかしたりして、規則違反がエスカレートしたものだった。

特別待遇は刑務所上級職員の間で申し送り事項になっていた事実も判明し、刑務所の管理体制が問題となって衆議院法務委員会でも責任追及がされる。その結果、法務省矯正局長以下13人の法務関係者上級職員、専従職員13人が停職・減給・戒告・訓告などの処分を受けた。包丁を差し入れたとされる看守が後に服毒自殺をしている。(略)

1975年11月4日、最高裁が上告棄却し無期懲役が確定。千葉刑務所で服役。

1999年9月に韓国に強制送還することを条件に70歳で仮出所。東京保護観察所を経て、韓国釜山に帰国させられた。これにより在日韓国人としての特別永住権は喪失した。

帰国後

韓国政府から助力を得、釜山にて新生活を始め結婚もした。だが2000年に講演会がきっかけで親密になった愛人の夫への殺人未遂と放火および監禁事件を引き起こした為、逮捕され服役した。(略)


現場になった「ふじみや旅館」がタイミング良く(?)、先月から資料を展示しているようですね。

(毎日新聞 2010/02/17)

 1968年2月に暴力団員ら2人を殺害した容疑者が、静岡県川根本町の寸又峡(すまたきょう)温泉の旅館に5日間立てこもった「金嬉老(きんきろう)事件」。在日韓国人2世だった金嬉老元受刑囚(81)が記者らを招き入れて在日差別を糾弾するなど、初の「劇場型犯罪」として戦後史に刻まれている。20日で事件から42年がたつのを機に、現場となった旅館の女将(おかみ)、望月英子さん(71)が館内に資料を展示し、一般公開する決意を固めた。【網谷隆司郎】

◇昭和の特異な事件、忘れまい

 「怖かった。もう忘れたいと何度も思った」

 宿泊客11人、家族4人と共に人質になった「ふじみや旅館」の望月さん。元受刑囚のライフル銃とダイナマイトにおびえた。3日目に子供らと解放されたが、残された人質のために母屋と旅館を往復、食事の世話を続ける女将根性を見せた。「後味の悪い事件で長年、封印してきたが、風化させてはならないというご意見をいただいた。昭和の特異な事件を次代へ引き継ぐことも当事者の責務と考えた」というのが開館理由だ。

 資料は当時の新聞・雑誌のスクラップや写真類、韓国人僧侶からの感謝状など約200点。1階の大広間に並べた。

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 今では塗り込められて見えないが、「罪もないこの家に大変迷惑を掛けたことを心からお詫(わ)びします。この責任は自分の死によって詫びます。お母さん不幸(不孝の誤字)をお許しください」と書いた壁の前に立つ本人の写真もある。

 一昨年11月、望月さんはテレビ朝日の報道番組で、インタビューに答える金嬉老元受刑囚を見た。「元気そうでしたね」と皮肉っぽく語る。元受刑囚は75年に無期懲役が確定、99年に強制送還を条件に仮出所して以来、韓国で生活しているが、旅館には「何の音信もありません」という。

◇地元に賛否の声

 12軒からなる地元の寸又峡温泉にも「今さら事件には触れないほうが」「いや、歴史の現場として正面から取り組もう」と賛否の声があるが、今は「冬のスマタ」キャンペーンを展開中だ。資料館は20日ごろ開館の予定。大人700円、子供400円。


>日本共同通信とのインタビューで~~生前に日本訪問を積極的に希望していたことが分かった。
・・・。

(共同通信 201002/27)

 1968年に静岡県内で暴力団員2人を射殺、人質を取って旅館に立てこもった「金嬉老事件」で無期懲役が確定し、99年に仮釈放されて韓国に永住帰国した金嬉老(本名権禧老)元受刑者(81)=釜山市在住=が日本への渡航を希望し、3月にも日本政府に入国を認めるよう要請することが27日、分かった。金氏らが共同通信に語った。

 金氏は「死ぬ前に母親の墓参りをしたい」と話しており、日本の法務省に嘆願書を送るほか、韓国政府にも外交ルートを通じて日本に入国を認めさせるよう陳情する意向。

 しかし韓国側の関係者によると、日本の法務当局は金氏が日本に再入国しないことを条件に仮釈放を許可。永住帰国したため、在日韓国人の特別永住権も喪失している。

 2000年9月に釜山市で起こした殺人未遂や放火の有罪判決が確定し、入管難民法の「上陸拒否事由」にも該当するとみられる。日本の法務当局は、犯罪行為をしないなど仮釈放中の順守事項に違反したことで仮釈放を取り消し再収監する可能性もある。

 一方、韓国の法務当局は「基本的には日本側が判断する問題」として静観する構えだ。
(スポニチ/共同通信 2010/02/27)

 「金嬉老事件」で無期懲役が確定し、1999年に仮釈放後、韓国南部釜山市に渡った金嬉老(本名権禧老)元受刑者(81)。韓国を「祖国」と言い切る一方、生まれ育った日本に対しても「思いを捨てたことはない」と複雑な胸中をのぞかせた。

 金氏は仮釈放当時「日本で民族差別を告発し戦った人物」として、韓国で英雄視された。帰国後、各地で講演などを行い、移動する際は警察当局の警護が付く待遇だったが、2000年9月に殺人未遂などの事件を起こしたのを機に一転。現在は韓国メディアに登場することもなく、ひっそりと暮らしている。

 仮釈放され、釜山行きの航空機に乗り込む際は、母の遺骨を胸に抱いた。その遺骨は金氏のきょうだいが住む日本に再び戻され、静岡県掛川市の墓に納められているという。

 金氏は「空を見上げ、日本の方に飛んでいく飛行機を見ると、近くても行くことができない日本への思いが募る」と話す。

 「韓国での生活は、言葉の面など苦労は多い。日本にいたのなら、自分を生かせたのではと思う時もある」とも。消息を聞いた日本人が訪ねてきて、激励を受ける時もあるという。

 金嬉老事件の裁判では、金氏側は「民族差別から起きた悲劇」と主張した。事件から40年以上が過ぎ「今さら(自分が経験した差別など)過去のことに触れても、憎しみしか生まれない。日韓間のマイナスになるようなことはしたくない」と語った。 (共同)
(スポニチ 2010/02/27)

 1968年の「金嬉老事件」で無期懲役が確定し、99年に仮釈放され韓国に永住帰国した金嬉老元受刑者(81)が日本への渡航を3月にも日本政府に要請する意向を示していることについて、千葉景子法相は2日の閣議後会見で「(要請があった段階で)政府全体として検討するものと思うが、お答えする状況にない」と語った。

 一方「このケースということでなく一般論では、懲役刑などが確定している場合は上陸拒否事由に該当する」とも述べた。金元受刑者は、2000年9月に釜山市で起こした殺人未遂や放火の有罪判決が確定している。


>「遺体を火葬して、遺骨の半分は祖先の故郷の釜山影島の沖合に撒き、半分は静岡県の母の墓に埋めてほしい」と遺言した
>遺骨は故人の遺言により処理されると伝えられた。

日本の親戚は……↓

(聯合ニュース 韓国語 2010/03/26)

遺骨の一部送還「ゆっくり考えてみましょう」

「韓国からで見れば英雄かも知れないが、日本から見れば犯罪者ですよ。私たちはその心は分かるが、実際に良い事をしたのではなく、また私たちは日本で暮らさなければならないから..」

在日同胞差別に抗議してヤクザを銃器で殺害したクォン・ヒロ(権禧老)氏が26日、釜山で亡くなったという話を聞いた外甥キム某氏(49)は自身の感情を一言で整理するのが難しいといった。

日本,静岡県掛川市で食堂を運営するキム氏は、クォン氏のすぐ下の妹の息子。クォン氏が1968年に静岡県でいわゆる『金嬉老事件』を起こした時は、その意味をぼんやり理解できる年であった。

「母方のおじ(クォン・ヒロ)は、単に自分に『チョウセンジン、汚い豚野郎』と罵ったとしてヤクザを殺したのではないですよ。あの時おばあさん(クォン氏の母親)が私のように“ヤキニク”食堂を運営していたが、ヤクザがその食堂で騒ぎを起こして、おばあさんが住むことができないようにしましたよ。その事に腹が立ったのです。」

クォン氏が無期懲役刑を宣告されて日本で服役し、1999年9月に韓国に永久帰国した時もキム氏が同行した。

クォン氏が前立腺癌で闘病中なので長く生きることができないと思う、という言葉は前から聞いていたので26日、記者が電話で死亡の便りを伝えた時にも淡々としていると話した。

心情を問うと「複雑だ」と言った。

掛川市には、クォン氏の兄弟と親戚が数十人暮らしている。日本から見ればこれらは殺人と人質劇を起こした犯罪者の親戚たち。キム氏は「その時、差別が激しかったことは事実だが、日本の人々は自分たちが過去にした事はそれほど考えていない」と話した。

クォン氏は離れたが、日本でずっと暮らさなければならない親戚の立場から、感情をありのまま表わすことは容易ではないという。キム氏は「事実、差別を受けていると言って犯罪を犯すのは悪いことではないか」という話もした。

クォン氏の遺骨の一部を日本に持ってくることも簡単な問題でない、と説明した。

クォン氏の母親の墓はまさにキム氏の食堂の近所にあるという。キム氏は、数年過ぎた後ならば分からないが、日本で暮らさなければならない親戚たちの立場を考慮する時、数多くのこれらが見守る中で遺骨を日本に持ってくることは難しいという。

キム氏は「ゆっくり、何年か経ってから考えてみましょう」と話した。

26日午後、飛行機便で韓国に行くクォン氏の妹とまた他の外孫などは、弔問後、パク・サムジュン僧侶に親戚らのこうした立場を伝える予定という。

在日本大韓民国民団(民団)も同様の理由で、クォン氏の死亡と関連した一切の行動を用心深くしている。

静岡県民団本部関係者は「個人的には分からないが組織的に反応することは難しいだろう」と惜しんだ。(機械翻訳 若干修正)


【追記】
(聯合ニュース 2010/04/19)

 在日韓国人・朝鮮人差別に抗議し日本で犯罪(金禧老事件)を起こして服務し、永住帰国した後、先月26日に死去した権禧老(クォン・ヒロ)元受刑者の遺骨が、来月日本に移される。

 権氏の後見人を務めていた僧侶によると、釜山の寺に安置されている遺骨は、四十九日の法要を済ませた後、遺言に従い、半分が父親の故郷となる釜山の沖にまかれる。残り半分は来月22日、母親が眠る静岡県掛川市の墓地に移されるという。

 在日韓国人2世の権さんは、1968年2月20日に静岡県で在日同胞を侮辱した暴力団員2人を銃殺した後、近くの旅館で宿泊客らを人質に約88時間にわたり立てこもった末に逮捕された。権さんは当時、韓国人差別を告発するために事件を起こしたとして、日本の警察に謝罪を要求した。1975年に無期懲役を言い渡されたが、韓国で権さん帰国運動が広がり、日本に再入国しないことを条件に1999年に仮釈放され、韓国に帰国した。先月26日、前立腺がんのため82歳で亡くなった。


ヤクザ殺害は“差別”が原因ではないことをよくわかっているようですね。


(聯合ニュース 韓国語 2010/03/26)

▲1928年11月:日本,静岡県清水市で出生。
▲1934年:清水小学校入学。
▲1935年:母親のパク・トゥクスク氏、キム・ジョンソク氏と再婚。キム・ヒロの姓は義父の姓に従ったものだ。しかし本人はクォン・ヒロと常にいう。
▲1939年:5学年の時、清水小学校退学処分。
▲1943年:窃盗などの罪で警察に逮捕。日本の敗戦時まで相愛少年保護院の世話になる。
▲1944年:残った家族は中島の地下飛行機建設工事に徴用される。この工事には朝鮮人3千人余りが動員される。
▲1946年:窃盗・横領罪で服役。当時、彼の家族は帰国のために荷造りをしていたが、祖国の情勢がとても不安であきらめて結局日本に定着する。
▲1967年:妻と別れる。結婚から離婚まで8年余りが彼の最も安定した時期だった。
▲1967年:清水市で朝鮮人と日本人の争いがあり、この時に警察官が「君たちチョウセンジンらは...」と話して彼と争う。外国人登録期限が終わったが再登録していない。義父自殺。

▲1968年:2月20日、ナイトクラブ『ミンクス』で金銭問題で縺れた暴力団親分などを銃殺する。翌日、ふじみや旅館を占拠して新聞・テレビ等を通して民族差別問題を訴える。24日、逮捕されて3月17と4月12日の2回にわたり起訴される。6月25日の初公判の時、法廷に立つことを拒否。以後、何回かの公判を経て11月6日に静岡拘置所に収監される。

▲1975年:無期懲役確定判決受けて静岡拘置所から熊本刑務所に移監。ここで24年間服役。
▲1999年6月29日:東京の府中刑務所に極秘裏に移監。
▲1999年8月23日:日本法務省、クォン氏とパク・サムジュン僧侶に釈放決定事実を通知。
▲1999年9月7日:釈放と同時に帰国。
▲2000年9月3日:釜山で女性問題で乱暴を働いて警察に連行。この事件で2日後拘束。
▲2010年3月26日:持病の前立腺癌で釜山市東莱の峰牲病院で死亡。


経歴をどう見ても、「同胞のために差別と戦うニダ」って生き方をしてないですね。