『安重根と伊藤博文』 NHK、韓国併合100年特集放映
(朝鮮日報 韓国語 2010/04/19)  


日本の公営放送のNHKが“韓日強制併合100年”に併せて製作した5部作の特集番組『プロジェクトJAPAN』の初回が去る18日、放送された

NHKは今回の5部作の番組を通じて「1910年になされた韓日合併から100年が過ぎた今、日本はどのようにして大韓帝国を併合したのか、植民地支配や戦時動員の実態はどのようなものだったのか、さらに戦後の関係改善はどのように行われていったのかに対して'国際的な視点'で調べる」と明らかにしている。


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1910年の韓国併合から100年になる。日露戦争後の世界で日本はどのようにして大韓帝国を併合したのか。その後35年に及ぶ植民地支配や、戦時動員の実態はどのようなものだったのか。さらに戦後の関係改善はどのように行われていったのか。5回シリーズで日本と朝鮮半島の100年の歩みに迫っていく。

1910年の韓国併合。その歴史的評価をめぐって、今も日韓の間で議論を呼んでいる。その中心人物・伊藤博文について、最近、新資料が発掘された。伊藤は欧米列強との協調を重視し、一種の「自治植民地」も構想していたというのだ。

しかし、1905年、日露戦争の勝利を受けて、伊藤が韓国を保護国化した第2次日韓協約を結ぶと、大韓帝国皇帝・コジョン(高宗)と対立する。1907年、コジョンはオランダ・ハーグで開かれた万国平和会議に密使を派遣。協約が自らの意志に反すると訴えようとした。しかし、英米だけでなく、議長国ロシアも外交方針を転換、日本と協約を結んでいた。

このハーグ密使事件を機に、伊藤がコジョンを退位させると、激しい義兵闘争が起こる。そして、1909年、伊藤はアン・ジュングン(安重根)により、ハルビンで暗殺された。アンは獄中で「東洋平和論」を執筆、韓国、清、日本が「みな自主独立して行くこと」を考えていた。しかし、日本は韓国併合から大陸進出へと歩み出していった。

伊藤博文とアン・ジュングン、二人の軌跡を新資料で描き、韓国併合への道を国際的な視点から明らかにする。




この日午後9時から75分間にわたって日本全域に放送された『韓国併合への道 伊藤博文とアン・ジュングン』では、朝鮮の初代統監の伊藤博文が直面した問題を、独立活動家の安重根と併せて背景を説明した。

放送は1910年の韓日併合(1910年)に対して「100年が過ぎた今でも韓日間の熱い歴史的論争を呼び起こしている」と報道した。韓日併合に対しては、初めには日本が西欧列強との強調を重視し、韓国を一種の“自治植民地”としようと構想していた。しかし日本が露日戦争(1905年)で勝利すると韓国を“保護国化”する第2次韓日協約を結び、この過程で大韓帝国の皇帝のコジョン(高宗)と対立することになった、とNHKは説明した。 韓国併合が日本が大陸に進出する過程で行われたことを認めたのだ。

一方では「コジョンがハーグの万国平和会議(1907年)に密使を派遣し、韓日間協約が韓国の意思に反するということを知らせようとしたが、米国と英国はもちろん、ロシアさえも外交方針を転換、日本と協約を結んでいた」として、併合決定が日本の単独的なものでないと伝えた。

安重根義士が伊藤博文を狙撃した事件に対しては、「伊藤博文が密使派遣を口実にコジョンを退位させると、大規模な義兵戦争が起き、この渦中にアン・ジュングンが撃った銃に狙撃された」とし「その後のアン・ジュングンは獄中で『東洋平和論』を執筆、韓清日が皆自主独立して行くことを考えていた」と紹介した。

今回のNHKの特集番組は、2009年から2011年にかけて《横浜開港から150年》(2009年)、《韓国併合から100年》(2010年)、《太平洋戦争開戦70年・サンフランシスコ講和条約60年》(2011年)という題名で順に放送される予定だ。(機械翻訳 若干修正)


プロジェクトJAPAN NHKスペシャル シリーズ「日本と朝鮮半島」

  "第1回 韓国併合への道 伊藤博文とアン・ジュングン
  "第2回「民族自決を求める声」(仮)
  "第3回「戦場に動員された人々」(仮)
  "第4回「冷戦に引き裂かれた在日コリアン」(仮)
  "第5回「日韓関係はこうして築かれた」(仮)

タイトルを見ると「プロジェクトJAPAN」というわりには、「韓国人の視点で見る韓国強制併合と日本」ですね。

韓国はまだ不満のようですが・・・・・・↓

日、‘平和な者イトウ’‘理想主義的暗殺者アン・ジュングン’歴史認識‘私のメガネ’脱げなかった
(ハンギョレ新聞 韓国語 2010/04/19)

「両班(ヤンバン)出身。国債報償運動に参加した民族主義者」。日帝が外交権を剥奪して軍隊を解散すると「義兵運動」に荷担し、日帝の強制併合が現実に近づくと「朝鮮独立と東洋平和のために断指同盟を結んで伊藤を暗殺した人物」。


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韓日強制併合100年をむかえて日本公営放送NHKが18日夜9時から73分間放送した「日本と朝鮮半島」5部作特集番組の初回「韓国併合への道、伊藤博文(写真・右)とアン・ジュングン(写真・左)」は安義士をこのように描写した。孫のアン・ウンホ(92)氏が祖父を「ロマンチスト」と表現したことを何度も強調し、安義士を実現の難しい平和論を出した「理想主義者」のように描いた部分はうなずきにくいといえど、「暗殺者」と表現した安義士の行跡を偏見なしに扱おうと努めた跡が歴然だった。

しかし乙巳条約を強要し朝鮮統監として植民地支配の道を整えた伊藤博文に対するNHKの描写は両国間の歴史認識の谷を埋めることがどれほど難しいかを見せた。NHKは伊藤が「現実主義的帝国主義者」だったことを否定しなかった。だが、伊藤を「朝鮮を近代化し自治植民地を作ろうと構想した平和主義者」として描写した。ただし、植民地争奪戦が広がった当時、国際情勢がその道を開いてくれなかったし、1905年乙巳条約に高宗(コジョン)が反対し、朝鮮で民族主義が高揚して葛藤が表面化し「併合への道」に行った、というのがこの特集の主張だ。

特集の初回は「国際的な視点」から歴史を見直すと明らかにした通り、周辺国の動きも見た。1905年、乙巳条約(第2次韓日協約)が「自由な雰囲気で締結されたのではない」という駐韓米国公使の報告書を通じて条約の正当性問題を提起した。しかし「高宗が1907年、オランダ、ハーグ万国平和会談に密使を派遣して乙巳条約が朝鮮政府の意に外れることを知らせようとしたが、米国・英国のみならず、一時は朝鮮政府を支援したロシアも密使の会議参加を拒んだ」として強制併合が日本独自の決定だけではないという印象も漂わせた。

もちろん日本の視聴者らの間では「安義士の見解に傾倒した放送だった」という不満も流れ出た

批判してはいけない「聖域」に置かれていた伊藤の歩みを道徳的正当性を持った安義士の歩みと対応させたのが理由と見られる。反面、日本視聴者たちの中にも「良い帝国主義と悪い帝国主義がありえるか」という指摘があった。「ホクシュ」というIDを使うネチズンはブログで「(放送は)伊藤が韓国を近代化するなど上手くやろうとしたが、理解を得られなかったというが、改革運動は朝鮮独自に先にあった」と指摘した。

シン・ウニョン安重根義士記念事業会責任研究員は「伊藤を帝国主義者として描写するなど一部進展もあるが、帝国主義侵略は周辺国の意向に反して大きな苦痛を与えたと見る認識の大転換に進むことができないのは残念だ」として「最初の放送を準備する時、NHKは非常に意欲的だったが、結局、日本国内の右派の反発を大きく意識したようだ」と話した。

NHKは5月16日、第2部「民族自決を求める声」編を放送する。引き続き「戦場に動員された人々」、「冷戦に引き裂かれた在日コリアン」、「韓日関係はこうして築かれた」(以上仮題)編をずっと放送する予定だ。(翻訳 2ch 蚯蚓φ氏)
 

 


韓国併合は不法か

 ところが、日韓の間で歴史をめぐってどんな論争があったかということは、意外と一般には知られていない。例えば、韓国側はいまでも日韓併合は不法だったといい、これを学界では「日韓併合合法不法論争」と称している。

 そこでこの問題をめぐって岩波の『世界』誌上で日韓の学者がかつて争ったことがあったが決着がつかず、二〇〇一年の十一月十六日に、アメリカのハーバード大学のアジアセンター主催で国際学術会議が開かれることになった。これは韓国政府傘下の国際交流財団の財政支援のもとに、韓国の学者たちの主導で準備されたものだった。韓国側はもちろん、国際舞台で不法論を確定しようと初めから企図し、そのために国際学術会議を持ったのであり、それを謝罪と補償の要求の根拠にしたかったことは明白であった。そしてそこにはアメリカ、イギリス、韓国、それから日本の学者が集まり、日韓併合の歴史をどう考えるかということで論争が行われたのである。

 この様子は、当時、『産経新聞』の二〇〇一年十二月二十七日の記事ぐらいでしか公表されず、一般の目にはほとんど触れなかった。が、これはとても大きな、重要な会議だったのである。

 韓国側はまず、いかに日本が不法に朝鮮を併合したかということを主張した。ところが、国際法の専門家でケンブリッジ大学のJ・クロフォード教授が強い合法論の主張を行ったのである。それは、当時の『産経新聞』の記事によると、「自分で生きていけない国について周辺の国が国際的秩序の観点からその国を取り込むということは当時よくあったことであって、日韓併合条約は国際法上は不法なものではなかった」という主張であった。

 当然、韓国側はこれに猛反発し、日本に強制されたのだということを主張したわけだが、同教授は、「強制されたから不法という議論は第一次大戦(一九一四 ― 一八年)以降のもので、当時としては問題になるものではない」と、一喝した。その会議に参加した研究者の友人によると、この結果、韓国側は悄然と肩を落として去っていったという。韓国側のもくろみは失敗に終わったのだが、日本では当時、この様子はほとんど報道されることがなかった。


韓国皇帝の意図

 そして、この会議に出席した県立広島大学の原田環教授が、最近、この点に関して非常に新しい実証的な研究成果を上げられた。それは、『青丘学術論集』という論文集の二〇〇四年の第二十四集に掲載されたもので、「第二次日韓協約調印と大韓帝国皇帝高宗」という題の論文である。この論文によれば、第二次協約の調印のときに高宗という王と、その周りに五人の大臣たちがいたが、その五人の大臣たちが、すべてが終わった後に王に上奏文を提出した。その史料はこれまで埋もれていて、研究されたことがあまりなかったのだが、原田教授はそれを初めて評価され、同協約の締結に関して韓国の皇帝高宗が、日本側の協約案を修正し調印する方向に、すなわち交渉妥結ということで一貫した行動をとったということを実証された。したがって、第二次日韓協約は韓国の皇帝高宗の意図に沿って行われたものだったということが分かってしまったのである。これは朝鮮史研究上の非常に大きな成果であって、これからこの線に沿って研究も行われていくと思われる。そしてこのように、だんだんと朝鮮研究が盛んになってきて、分からなかったこともはっきりし、われわれの歴史観も変わっていくのだろうと予測されるのである。【古田博司著 東アジア「反日」トライアングル


NHKが「併合100周年」特別番組を企画しているニダ!




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