流民の都市になったソウル
(プレシアン 韓国語 2011/06/21)


[解放日記] 1946年6月21日

6月21日のマッカーサー司令部の記者会見で在日朝鮮人帰還問題が言及されたが、まだ50万人余りの未帰還者が日本に残っているものと把握されている。5月15日までに106万人が帰国したと集計されたが(<朝鮮日報> 5月22日付)、解放1年が近づく今まで、在日朝鮮人の3分の1が帰国できなかったのだ。


マッカーサー司令部では21日、記者団との会見席上で在日朝鮮人帰国計画に関して大体次の通り話した。

3月18日に調査した帰国希望者は51万3000人であったが、これを一日に4000人ずつ9月末日に完了する予定だ。帰国者は日常生活品250ポンドと現金1000ウォン(以下貨幣単位ウォンか円か不明。1945年8月時点では1ウォン=1円。)を持って行くことができる。

指令を受けても乗船地に集合しない者は帰国権を放棄したものと認定し、残留者は日人と同じ配給、その他の待遇を受けることになる。ひとまず帰国した者は、日本との貿易が正式に再開される時まで再び来ることができず、帰国者が残した財産は日本政府で保管する。(<朝鮮日報> 1946年6月23日付)


現在の集計では、解放当時約200万人の朝鮮人が日本にいて、そのうち約60万人が日本に残って在日同胞社会を作った。1946年6月まで帰国しなかった朝鮮人のうちの大多数が、結局、帰国しなかったと見られる。

なぜこれらは帰国を拒否したのだろうか?

当時の在日朝鮮人の中には、徴用で連行された人々をはじめ、現地に根をおろすことが出来なかった人々が多かった。彼らは大部分帰国した。しかし一方で、日本社会で生業を持ち定着した人々も相当数いた。彼らが帰国する場合、100数キログラム以内の荷物と現金1000ウォンだけを持って出るようにしたことは、在朝鮮日本人の帰国と同じ条件だった。財産を残せば日本政府が保管するといったが、その財産を再び見る日を約束することができただろうか?

<新天地> 1-9号(1946年10月)に掲載されたオ・キヨンのコラム『戦災同胞』に、これらが帰ってくる場合、処することになる状況が切実に描かれている。とても良い文なので読者らの感想のために長く載せておく。


ところで、これはどういうことか。夢にも描いたその故国、圧迫者が追い出されて私たちの地になった解放の故国に戻ることを望まない在外同胞の数が、何と数十万といわないか

これらはかつて祖国を裏切って出て行った人でないから、祖国にはこれらを喜んでくれる同胞がいるだけで、その憎かった怨讐は皆追い出された今日である。みんな帰ってきて解放の喜びの中に山河も新しくなった錦繍江山として互いに胸に抱き、新しい国を成し遂げなければならないのに、どうして蔑視と迫害にぬれた外地にそのまま残ることを望むとはどういうことなのか

しかし、とんでもないことだ!これらは解放はされたがまだ完全に自分の国でなく、この地に来るならば楽しみよりは悲しみが先んじて、平安なことよりは苦しいことが増すことを知るためだ

そうではないか。如何に多くの戦災同胞が解放の祖国だと訪れて、今、ボロを着て飢えて通りにさ迷っているのか。彼らのために家を用意する前に、倭人の家はすべて権力に頼った両班が占めてしまったし、医療品を独占した悪徳商人らに、これらのボロを着た様子を見て同胞愛を感じろと叫んでも無駄だった

米一斗(約18リットル)で五百ウォンするこの地に千ウォンずつしか持ってくることが出来なかったこれらのために食べ物をあたえる人はなかったし、満州の過酷な原野を沃土にし、倭地のその過酷な労働にも耐えたこれらではあるが、これらに仕事をあたえる職場も農地もなかった

いくら祖国の解放が嬉しくて急いで帰りたかったとしても、乞食になるために故国に帰るというのは考えるものだ。乞食になることができなくて離れた故国ではないか。これで乞食になろうと故国に来るのでは、これら自身よりも故国の山河が先に号泣することではないか。


新聞は一度帰ってきた人々が密航船に乗って倭地に行く人が多いと報道している
。どれほどの意図で再び出て行くのだろうか。その心情だけでも彼が窮するのをこれはならないと、元の通り引き込んできて引き入れて行く、これらに安心するほどの何らかの生業を与えたのか。(<本当のムクゲ>(オ・キヨン著作、成均館大学校出版部編集)104~105ページ)


6月21日付<朝鮮日報>では、38度線以南の朝鮮にまだ残っている日本人の数が437人だと報道された。集計を避けて隠れている日本人は殆どいなかっただろう。在朝鮮日本人はほとんど例外なく帰国した反面、在日朝鮮人の相当数は日本に腰を据えた

朝鮮に来て暮らした70万の日本人のうち朝鮮語を身につけた人がごく少数だったという点、そして朝鮮人が日本の植民支配に怨恨を抱いていたという点を考えると、日本人たちが朝鮮に残る意欲を出さなかったのは自然なことでもある。しかし、解放後の朝鮮が日本よりも人が暮らすのに悪い所であったという事実は明らかだ。在朝鮮日本人には絶対に残ることはできない所であったし、在日朝鮮人にはあまり戻りたくない所だった

チョン・ウヨンは1946年末の状況をこのように描いた。叙述の大部分はその6か月前の状況にも同様に適用されるだろう。


1946年末、全国に散った'戦災民'の数がどれくらいになるかは誰も分からなかった。軍政庁と戦災同胞援護会中央本部の調査の結果は280万人程度だったが、新聞は600万から800万の間で、その時その時便利なように記録した。彼らのうち25万人ないし30万人程度が何の対策もなしにソウルに留まった。越南民(北から南に越境した人)をはじめとする上京民も30万人を上回った。

米国人宣教師らを通じて軍政庁にコネをつけることができた一部の越南民らと、とても運が良かったり力が強い極少数の引揚者は、色々な世帯が一戸を使用する方式ながら、日本人たちが残して離れた'文化住宅'などや飲食店、宗教施設などを占めることができた。

しかし、絶対多数の戦災民らにそのような機会がくるわけがなかった。軍政庁と民間救護団体が提供した臨時収容所にでも入ることができればまだ幸いだった。

延べ150万人が集まったソウルでは、多くの人々が公園や橋の下、鉄道駅と防空壕に身体を横にしなければならなかった
。(<現代人の誕生>(チョン・ウヨン著、耳順発行),26~27ページ)


忠州で中学校に通ったユ・ジュンホの回顧を見ると、'戦災同胞'は地方都市の住民たちもその存在を感じていた対象だった。しかし、ソウルのような大都市のように社会の雰囲気を圧倒するのではなく、周辺部に寄生する存在であった。


戦争で被害を被って日本や満州から帰国した人々を戦災同胞と呼んだのだ。必ずしもこの戦災民と関連したことではないが、乞食をする人々が解放後に急に増えたのは事実だ。朝夕で時間になれば食事を物乞いする人々が家の中に入ってきて立っていた。(…)忠州から嶺南へ行く国道が通る俗称龍山橋の下に出た若干厚めの堆積地にずらりとボロかますを敷いて路上生活者家族が敷地を定めた。これらはすぐに袋のようなものを集めて風を防いで最初からそこに定住した。我が家は龍山橋から近い距離だったが、この橋の下の野宿家族が私たちの町内で乞食をすることはなかった。どうしても顔が知られる場合があるので、全く知らない方で物乞いをする方が良かったのだろう。(<私の解放前後>(ユ・ジュンホ著作、民音社発行),198~199ページ)


帰還同胞を主軸として大きな規模の流民集団が発生した。農村と地方には流民のための仕事がなかったし、彼らは生存のために乞食しかすべき仕事がなかった。

それに比べて大都市には質の悪い仕事でも仕事を探す余地があったので、流民が大都市に集まるほかなかった。1930年生まれで平壌で育ち、1946年8月に単身越南したチェ・ピョンリュルの回顧を1945年12月16日付の日記に紹介したことがあるが、もう一度載せておく。


ソウルに来てもお金がないから漠々だった。それで始めたのがチャプサルトク(大福餅)、メミルムク(蕎麦豆腐)、アイスケーキの商売、そしてソウル駅と塩川橋の前でタバコの吸殻拾ってむいて売り、ノート商売、鉛筆商売、ろうそく商売などしなかったものはないです。いままでやったこともなかった事だから大変だったが方法がなかったです。ご飯を食べて生きなくてはならなかったから。そうするうちに48年には、南大門市場のソボク旅館で偽物タバコ商売をしました。龍山洞2街がその時は解放村と言われた場所である。以北(北側)の人々が移ってきて形成された町内だった。そこで作った偽物タバコを受けて売ったのです。生きるためにあがきました。


現在、獎忠洞付近にその当時、以北から移ってきた学生たちがたくさん集まっていたから、以北学連のテントを張ってくれました。その時から反共闘争が始まったのです。以北から移ってきた大人たちは西北青年会、学生たちは以北学連会。私たちの活動は左翼勢力を打ち破る行動部隊としての役割でした。例えば、その当時は南労働党だろうが何だろうが皆合法政党であったため、警察官が私たちに地図を持ってきてはどこどこにいるやつらが悪質なアカであるから行って大いに懲らしめろといいました。それで夜に行って隠れて彼らをたっぷりぶん殴るんです。ぶん殴っていて私たちも力が及ばなければ遅れをとるように殴られる。(<8・15の記憶>(ハンギル社発行),351~352ページ)


"団結してこそ暮らせる"ということは流民が切実に感じた生存原理であった。政治的動員の手を伸ばした時、彼らは生存の意志を持って呼応した。こうした流民が人口の3分の1に達する都市ソウルは、住民たちの政治的表現が正常になされることはできない所だった。(機械翻訳 若干修正)




「広義の強制抑留」という定義はないニカ?
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誰も書けなかった日本のタブー
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