済州島「4・3事件」で慰霊祭 17日、生野で
(朝日新聞 2011/04/16)


 韓国・済州島で1948年、住民約3万人が虐殺されたとされる「4・3事件」の慰霊祭が17日午後2時から大阪市生野区桃谷5丁目の観音寺で開かれる。事件を体験した在日コリアンの証言のほか、慰霊の詩の朗読や演劇がある。

 4・3事件では済州島で武力蜂起した左翼勢力を警察や軍が弾圧する過程で無関係の住民が多く犠牲になった。大阪の在日には、虐殺を逃れるためなどに済州島から日本に来た人も多く、遺族会や研究者らが毎年4月に慰霊祭を催している。

 当時中学生だった在日女性が初めて人前で体験を語り、済州島の詩人許栄善さんが慰霊詩を朗読。在日3世の演劇人金哲義さんと金民樹さんは2人芝居「蛇の島」で犠牲になった家族を捜す老婆の物語を演じる。無料。問い合わせは聖公会生野センター(06・6754・4356)へ。(多知川節子)



済州島四・三事件 (Wikipedia)

済州島四・三事件(さいしゅうとうよんさんじけん)は、1948年4月3日に在朝鮮アメリカ陸軍司令部軍政庁支配下にある南朝鮮(現在の大韓民国)の済州島で起こった島民の蜂起にともない、南朝鮮国防警備隊、韓国軍、韓国警察、朝鮮半島本土の右翼青年団などが1954年9月21日までの期間に引き起こした一連の島民虐殺事件を指す。

韓国政府側は事件に南朝鮮労働党が関与しているとして、政府軍・警察による粛清をおこない、島民の5人に1人にあたる6万人が虐殺された。また、済州島の村々の70%が焼き尽くされた。



大阪の済州島出身在日韓国人は、事件をきっかけに密航して来た人より、その人たちを頼りに(?)お金を稼ぎに密航して来た人のほうが多そうですが……



様々な“密航”事情に泣くべきか笑うべきか…
(済州の声 韓国語 2010/11/03)

[在日同胞 彼らは誰か] (15)密航、あの時はどんな時...

うまく行けたと連絡きたという。
お金くるのだ。
1年に大きい畑一つずつ買うという。
登録作ったという。
飛行機乗って来るという。
飛行機乗って帰国したら道知事うらやましくなかった。


密航。

済州島の人の中で「我が家は密航と関係ない」と自信を持って話せる人はいるだろうか? 済州島の人の中でいとこ以内の親戚に密航経験がない家があるだろうか?

当時の密航は済州島の人々にそんな遠くにある他人事ではなかった。自分自身のことでなくとも家のことだった。筆者の友人も密航者がいたし、従兄さんも密航で日本に行ってきた。

筆者の従兄さんは、私が中学校(1960年代)の時に、大阪に密航して行った。結婚して息子が2人いたがおば(密航本人のお母さん)に任せて、嫁とともに密航して行った。

うまく行けた。お金が来始めた。筆者が大学に入学した時、制服を着なさいと当時、韓国のお金で2万ウォンを送ってきた。当時の制服は大学生のシンボルだった。密航に行ったお兄さんも着たかった制服だった。自分が入れなかった大学、自分が着られなった制服、自分の代わりに必ず着なさいとお金を送ってきたのだ

命を賭けて行く密航、苦労して稼いだそれこそ血の滲むようなお金、こうした命のようなお金を受け取った筆者は、今は時々お兄さんと争う時もある。こんなお金を受け取った私が、お兄さんに反対して争いをするなんて、お兄さんから鞭で打たれなければならない奴だ。

その後、お兄さんは日本で捕まり大村収容所に送られたと連絡がきた。釜山に送られて、釜山から済州島に入ってきた。済州島に入ってくる時、済州港に迎えに行った。乗って来る船は『済州号』であった。『済州号』という船は小さくて、乗っている人々を遠くからも見ることができて、お兄さんの姿を見分けることができた。船を降りたお兄さんは、6才になった息子たちを抱いてしばらく自分の頬を息子の頬に当てて涙を流していた。兄の胸に抱かれた息子たちは、知らないおじさんの胸に抱かれたのが嫌で、それを抜け出そうと必死だった。その姿が私たちを泣かせた。

密航船に乗ったからと皆日本に到着するのではなく、日本の地を踏んだからと成功するのではない。密航は韓国でも日本でも不法だ。韓国警察も避けながら船に乗らなければならないが、日本に到着したからと目的地まで到着するのではない。

密航船に乗る瞬間に韓国警察に摘発されて鉄格子の世話になる人々も頻繁にいるのだ。日本の地を踏んだからと目的地(例えば大阪)まで到着するという保障はない。地を踏んで思うようにする過程で日本警察に捕まり大村収容所行になってしまう。 むしろ、日本の地を踏んで思うようにする途中で捕まる人々がより多い。

目的地には人を引き受ける人がいなければならない。目的地にうまく到着すればもう仕事をし始める。一番最初に密航費用を返さなければならない。日本で支払ったお金は1年ほど働けば返すことができるでしょう。その後、韓国にお金を送る。それで1年に大きい畑一つ買うことができた。

当時の韓国社会は、当時の日本社会はどんな社会だったのだろうか?

1960年代・70年代の済州島にはお金になる産業がなかった。農作業があったが済州島全域は畑作だ。畑作では大きいお金にならない。お金になる産業は西帰浦ミカンだった。済州島全域でミカンができたのではなかった。当時、済州島のどの家もみな麦ご飯を食べた。学校で昼休みに弁当を見れば分かる。筆者も学級の誰もみな麦ご飯弁当だった。1974年に高校を卒業した筆者は、高校を卒業する頃まで家で麦ご飯を食べた

その頃、日本はどんな社会だったのだろうか?

日本は高度成長期であった。全世界的に工業製品が不足した時代であった。また、日本が作る品物はどの品物も良かった。世界市場を日本製品が席巻をした、そんな時代であった。日本は物を作りさえすれば世界で売れる時代であった。労働力すなわち人手が必要だった。目的地に無事にちゃんと到着したら仕事は無尽蔵にあった。今日ちゃんと到着したので明日から仕事に行くようにしたという証言もある。日雇い仕事だが、仕事がたまっていたという。 一日休もうとしても注文に押されて一日も休むことができなかったと話している。

密航者はどんな権利もない。ただ黙黙と働くだけであり、また、主張する権利も主張できない。雇用者側から見れば働かせやすい労働力だ。知っている日本人がいる。仕事関係で私たちの同胞と関係があり、その同胞の仕事場にしばしば行くことがあったが、そこで密航者が働いていたという。どうして仕事をよくするか、その働き手がとても気に入ったという。今となってはその時稼いだお金が、その密航者の苦労が含まれたお金だと話している。機会があれば一度会ってお酒を一杯飲みたいと話しているが、探す方法がない。

どれくらい多くの人々が日本に密航をしたのだろうか?

密航に関する統計はない。推定をするほかはない。済州島4・3事件の混乱を避けて日本に密航をした人々が約3千人という数字がある(朝日新聞。しかし、何を根拠としたという説明はない

『大村入国者収容所二十年史』という本がある。1970年に日本法務省大村収容所が自分たちで直接作った本だ。行政機関が作った本なので、だいぶ信頼性がある本だ。1950年12月から1970年9月までの20年間、大村収容所から韓国に送還された人は1万6千4百人だ。このうち1955年までは1年に2千数百人が送還された。この時は6・25事変の時であった。1960年までは年間約1千人余りずつ送還されている。1960年以降の1960年代は年間6百~5百人余り程が送還されている。1970年からは年間3百人余りになる。1980年代に入って密航は確実にに減ることになる。また、1988年のオリンピックを契機に旅行自由化になりながら密航は消えて、飛行機に乗ってビール一杯飲み込みながら日本に行って、ビザを放棄して不法滞在をすることになる。

密航に行くと皆捕まるわけではない。捕まらずに、また何らかの術を使って日本に定着した人々もいる。何らかの術を使って正式な外国人になることを『登録』をしたという。『登録』という『外国人登録証明書』のことを言い、『登録』を日本語では「トウロク」と読む。外国人登録証を持つ人は、日本政府が認めた合法的な外国人だ

登録を持つ人と登録を持てない人とは天堂と地獄の差だ。地獄(隠れて暮らす社会)と天堂(堂々とした証明を持った社会)差は想像だけでも分かる。

密航の途中、日本国内で捕まれば全員大村収容所行だ。また、密航がちゃんとできて日本で暮らしても、登録がない過程で捕まれば大村収容所行だ。登録なしに日本で暮らしている中、本人が自首する場合は大村収容所を経ないで連絡船あるいは飛行機で帰国する場合がる。こうした場合を自費帰国(自首して自分のお金で帰国)と呼ぶ。それでは、密航で来て登録をした人はどれくらいになるのだろうか? この数字もまた、推定だ。

日本の統計に一般永住者(5万3千人、2008年末の統計)がある。一般永住者というのは、解放後に日本に来て合法的に永住許可を受けた人だ。密航で日本に来て何らかの術を使っても、まず登録をしてもすぐに永住許可が下りるのではない。 初めは1か月ビザを数年間、次に6か月ビザをまた数回、1年ビザ、3年ビザを経るようにする。このように短い期間のビザを与えながら、入国管理局に来させるのは、品行方正でなければ韓国に強制送還するということだ。こうした過程が昔は20数年以上だった。最近ではだいぶ短くなった(しかし、密入国の場合は10年以上)。こうした長い期間と過程を経てこそ、永住権(日本政府は永住権と呼ばずに永住許可と呼んでいる)を申請することができる。申請し、この人は日本に住んでも日本の国益に異常がないと判定された優秀外国人が、永住権(永住許可)を受けることができる。

一般永住者5万3千人は、密航で来た人だけではない。解放後、密航でなく他の経路を通じて日本に来て、永住許可を受けた人々もいる。結婚等で飛行機に乗って来た人々もいる。5万3千人のうち2万人以下が密航で来て、何らかの術を使って登録をして、品行方正として永住権を受けた人だと考えられる

1950年から1970年までの20年間で大村収容所から韓国に送還された人は1万6千4百人、1970年代は1年に300人余り、10年で3千人余りと推定する。そうすると、大村収容所から韓国に送還された人は約2万人余り。日本に密航をして来たし、また何らかの術を使って日本で永住権を受けた人は2万人余り以下。

そうすると密航船に乗った人は4万人余り以下と推定する


4万余人のうちすべてが済州島の人だけなのではない。韓国の人皆入っている。しかし、飛行機以前の密航の時代は全体のうち2/3は済州島の人だろう。それでは、2万人余り以上の済州島の人が、密航をしたと見られるのだろうか?

当時、済州島の人口は30万人だった。30万人のうち幼い人とまた年を取った人は密航が不可能だ。適令者のうち2万人が密航をしたとすると、済州島でどれほど多くの人が密航をしたか想像できると思う

しかし、密航は中毒性があった。目的地にうまく到着できて暮らした人は、捕まって韓国に強制送還になっても、頭の中には日本しかないのだ。そのような人はまた密航船に乗ることになる。

どんな人々が密航船に乗ったのだろうか?

密航は韓国で船に乗る時に密航費用の半分を払い、日本にちゃんと到着した時に日本で残り半分を払う形式が普通だった。費用は、韓国で支払うお金は韓国で約1年間の収入、また、日本では日本で1年間の収入と推定することができる。今のお金で考えれば、韓国では船に乗る時に2千万ウォン、日本にちゃんと到着した時に日本で支払うお金が2百万円余り程度だっただろう。それでは、韓国で2千万ウォン余り程のお金を持っている人のみ密航が可能なのだ。自分のお金でも両親のお金でも、これ程のお金を用意することができる人のみ密航船に乗ることができた。

日本に到着すると、引き受け人がいなければならない。日本に誰もいない一人での密航は成立しない。日本に来れば道も知らず、言葉も分からない人になってしまう。日本に来ても何一つ望むことはできない。100%失敗して大村収容所が待っているだけだ

日本ではどんな人がいて、引き受けてくれるだろうか?

叔父までが限界だ。いとこが受け入れて密航で来たという人は見たことがない。また、友人が受け入れて密航で来たという人も見たことがない。親、兄弟、親の兄弟までが限界だ

ある日、突然現れて、今のお金で2百数万円を出してと言うのもまた、難しいことだ。事前にみな話ができていて、作戦になっていてこそ可能だったのだ

何方(済州島高山出身)、釜山から貿易船に乗って密航して来た。大阪で叔母が甥を引き受けるのだ。どこで何時に会うと約束して接触した。当時のお金で20万円(当時は1か月の給料が2万円にならない時代)を払うことになっていた。叔母は20万円を持って行った。その叔母、頼み込んで1万円を削って19万円で落着することになったのだ。今でもその方、1万円削ったことを話しながら笑う。(機械翻訳 若干修正)


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▲シン・ジェギョン(辛在卿)教授

1955年に済州市で出生した。済州北小学校、済州第一中学校、済州第一高等学校、漢陽工大繊維工学課を卒業した。韓日紡織仁川工場で5年間エンジニアをした後、1985年に日本国費奨学生として渡日、龍谷大学大学院で修士・博士課程を修了した。1993年、京都経済短期大学専任講師を経て、現在、京都創成大学経営情報学部教授である。専攻は経営情報論であり、大阪鶴橋で暮らす。大阪、済州島研究会事務局長を受け持っていたりもしたシン教授は、在日同胞、その中でも在日済州人の人生に対して調査研究していて、特に在日同胞らの'密航'を密度あるように調査しながら<済州の声>の'どんな密航の話'を連載してきた。また、日本プロ野球に対しても博識を発揮'辛在卿の日本野球'を書いてきた。





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日本に暮らす在日韓国人は、日帝による「強制連行」の被害者か、米軍・韓国軍事政権による「虐殺」の被害者 ニダ である。