(朝日新聞 2024/03/24)
 2019年夏に発動され、韓国側の猛反発を招いた半導体素材の輸出規制が、昨年3月に解除されて1年が経った。政治の対立を背景に当時の安倍政権が切ったカードだったが、日本側は代償も支払った。影響は今なお残っている

 「朝起きたら突然、規制の話が出ていて、てんやわんやの騒ぎになった。客先のサムスンからどうなるのかと聞かれ、慌てて韓国に飛んだ」

 日本企業の幹部は、当時の衝撃をそう語った。

 安倍政権は19年7月、韓国で日本企業が賠償を命じられた元徴用工訴訟判決への対抗策として、半導体の生産に使われる素材3品目(フッ化水素、フッ化ポリイミド、フォトレジスト)の韓国への輸出について新たな規制を発動した。

 輸出を完全に止めたわけではない。それまで企業ごとに一定の期間について包括的な許可を与える方式だったのを、個別に審査する方法に切り替えた。これにより、日本メーカーの通関の手間が増すことになった。

 影響は大きかった。半導体の洗浄などに使われるフッ化水素をつくる森田化学工業(大阪市)は、最初の半年間ほど輸出許可が下りなかった。輸出量の9割以上は韓国向けで、20年6月期決算の純利益は前年度比で9割も減少した。

 昨年3月に規制は解除されたが、韓国への輸出量は元通りにはなっていないという。今後も量は戻らないとみており、担当者は「米国など別の所に販路を拡大したい」と話す

 「韓国で『日本リスク』が確立されて、日本企業の製品を使わなくなっている」。そう語るのは、同業のステラケミファ(大阪市)の広報担当者だ。

 韓国への輸出を続けるため、海外の拠点を使った企業もあった。半導体の高性能化のカギとなる「フォトレジスト(感光剤)」大手のJSRは、ベルギーの合弁会社からの輸出に切り替えた。韓国貿易協会によると、ベルギーからの輸入量は19年6月に6万6千ドル(約1千万円)だったが、翌月には157万8千ドル(約2億4千万円)へと20倍以上に増えた。

 また、韓国の半導体産業の今後の成長も見据えて、製造拠点を新設する日本企業もあった。(杉山歩)

■韓国で進む素材の国産化

 韓国は、世界的半導体メーカーのサムスン電子とSKハイニックスが拠点を置く「半導体強国」だ。一方、素材や部品、製造装置の多くを日本など海外からの供給に頼ってきた側面もある。規制対象の3品目はいずれも日本への依存度が高かった。

 「高品質のものを効率的に入手する」ことを優先して築かれていた供給網だったが、日本の輸出規制は韓国側に「政治リスク」「依存リスク」の存在を再認識させた

 当時の文在寅(ムンジェイン)政権は、素材や部品などの調達先の国産化や多角化を推進した。韓国政府は20年、化学メーカー「ソウルブレーン」が高純度のフッ化水素の大量生産能力を確保したとして、「輸出規制3品目で初の国内自立化」と発表。ほかにも国産化の動きが伝えられた。尹錫悦(ユンソンニョル)政権も22年に打ち出した半導体産業の発展戦略で、素材や部品などの国産化率を30年までに30%から50%に高める目標を掲げている。

 実際は、日本企業の競争力が高い分野で短期間での代替や国産化は難しく、韓国貿易協会によると、20年以降も韓国の輸入額に占める日本のシェアがフッ化ポリイミドで9割前後、フォトレジストも7~8割を保つ。

 ただ、18年には輸入額のうち日本が4割以上を占めたフッ化水素は、規制直後には日本のシェアがほぼなくなり、20~22年に1割前後にまで落ちた。23年は2割超まで戻ったが、規制前の水準にはまだ遠い

■専門家「恩恵を受けたのは……」

 国産化などが進めば、韓国の半導体メーカーにとっては調達先の選択肢が増えることになる。日韓の経済関係に詳しい韓国の研究者は「日本からの輸入が今後も単純に元の水準に戻るということはないだろう」とみる。

 尹政権の誕生で日韓関係は改善へと向かい、昨年3月に日本も輸出規制を解除した。ただ、米中対立が続くなか、供給網の安定へ特定の調達先への依存を減らし、国内メーカーの競争力を高めようとする流れは韓国でも続くとみられている

 韓国外国語大の李昌玟(イチャンミン)教授は「不確実性の高まりに企業が反応し、部分的だが、韓国内に以前とは違う供給網を作り出した」と指摘する。韓国の企業でも半導体に限らず幅広い分野で、国産化や多角化など「不確実性への備え」が必要との認識が広がったとみている。

 韓国半導体産業協会の安基鉉(アンギヒョン)専務は「恩恵を受けたのは、関心を集めることになった韓国の素材や部品、装置メーカーではないか」と振り返る。(ソウル=稲田清英)

■「徴用工への対抗措置」 安倍回顧録で明らかに

 輸出規制はなぜ打ち出されたのか。日本政府は、今日まではっきりとは語っていない。

 当時背景にあったのは、韓国人元徴用工らへの損害賠償問題だった。

 18年、韓国大法院は日本企業に賠償を命じる判決を確定。「1965年の日韓請求権協定で解決済み」とする日本側は文在寅政権に対応を求めたが、具体的な動きはなかった。

 日本政府は当初、世耕弘成経済産業相(当時)が「信頼関係が著しく損なわれた」とSNSで述べるなど、徴用工問題が理由であることを半ば認めていた。だが、次第に「韓国の輸出管理に不適切な事案がある」との説明が繰り返されるようになった。

 政治的対立に経済カードで対抗することは、自由貿易の観点から批判が避けられない。韓国が世界貿易機関(WTO)に提訴したことからも、日本はあくまで安全保障上の措置であることを強調する必要があった。

 ただ、日本側の狙いは後年になって、意外な形で明らかにされた

 「韓国は、日本との関係の基盤を損なう対応をしてきたわけです。(中略)私は『国と国との約束が守れない中において、貿易管理は当然だ』とも述べました。あえて二つの問題がリンクしているかのように示したのは、韓国に元徴用工の問題を深刻に受け止めてもらうためでした」

 安倍晋三元首相は、死去後の23年に出版された回顧録の中で、経産省と首相官邸が徴用工問題の対抗措置として輸出規制強化を発案したと認めた

 規制強化に関わった経産省幹部は「韓国の貿易管理態勢に甘さがあったことは事実だ。フッ化ポリイミド、レジスト、フッ化水素の3品目は軍用品への転用が可能であり、第三国への流出を防ぐ意味から対象になった」としつつ、「官邸から強い指示があった。完全に政治案件だった」と振り返る

 経産省中堅官僚は「私たちは『やってはならない規制強化だ』と2度突き返したが、最後は官邸に押し切られた」と漏らす。外務省に至っては「発表数日前に初めて知らされた」(幹部)といい、一貫して蚊帳の外に置かれていたという。

 90年代に日米貿易摩擦の交渉役だった経産省OBは「日本が韓国に取った措置は、かつて米国から受け続けた経済圧力とも似ている。通商の世界は、きれいごとのみではやっていけない。サプライチェーンが複雑化する中で、より対応が難しい時代であることは国民と認識を共有すべきだ」と指摘する。

 ただ、日本はこれまで自由貿易を主張してきた経緯がある。売り上げを落としたメーカーだけでなく、輸出規制を政治利用した日本政府も国際的な評価を下げた点は否定できない。(冨名腰隆)


(朝日新聞 2024/03/24)

 2019年夏に始まった半導体素材の輸出規制が、昨年3月に解除されて1年が経った。規制はどのように日韓の経済に影響したのか。韓国経済に詳しい向山英彦・中央大非常勤講師に話を聞いた

――半導体素材の3品目(フッ化水素、フォトレジスト、フッ化ポリイミド)の輸出規制の強化について、影響をどのように分析されますか。

 「韓国内で国産化の推進、日本以外の国からの輸入を増やす多角化、海外企業の誘致による生産の現地化、という三つの動きが出ました」

 「その結果、最も影響を受けたのはフッ化水素でした。規制が始まってから(韓国の)輸入量が8~9割減っています。韓国政府が『日本に勝つ』と言って国産化を推進し、かなり高純度のフッ化水素を製造できるようになったと指摘されています」

――当時、韓国側から大きな反発がありました。

 「日本側も韓国側も、少し過剰に反応した印象を持っています。(規制の)発表後、韓国内では一連の歴史認識問題への報復措置と受け止められ、『ボイコットジャパン』の動きが想定以上に広がりました。日本でも半導体以外の産業も含めて、かなりの警戒感が広がりました」

――企業はどう動いたのでしょうか。

 「韓国企業は、特定の国や企業に大きく依存していることのリスクを改めて認識しました」

 「日本企業では、韓国政府の国産化を強める姿勢と、半導体産業が今後も成長していく期待などから現地生産を広げる動きが出ました。米国のデュポンが韓国でのEUV向けフォトレジスト生産を発表するなど、海外の企業が日本企業のシェアを奪おうとする動きも影響しました」

――フッ化水素の輸入量に占める、日本企業のシェアは以前は4割程度でしたが、規制の解除後も元通りにはなっていません。

 「以前の水準には戻らないと思います。調達先を多角化する方向性は変わらないからです」

 「ただ、日本企業にとっては韓国企業は重要な顧客です。先端半導体に力を入れている韓国も『中国に追いつかれるのではないか』という危機感があるので、先へ先へと開発を進めている。それに見合う素材と言えば日本製が一番良い。日本企業との協力は必要です。サムスン電子は、韓国のメーカーからの調達を増やしつつも、日本製に高い信頼を置いています」

――今後、日本企業は素材の優位性を保てるのでしょうか。

 「これまでも韓国内では国産化政策が繰り返されてきましたが、今回の3品目は隣国の日本に高品質のメーカーがあるので、あえて国内企業を育てる動きにはつながっていませんでした」

 「今回、韓国政府はフッ化水素の生産で『日本の水準にほぼ達した』と誇張した言い方をしていますが、まだ日本企業がつくれる純度に達していないというのが正直なところです。日本メーカーの研究の歴史が古く、追いつくのに時間がかかります」

 「とはいえ、韓国にとっては、今まで日本に頼っていた分野で国産化を進めるきっかけになり、産業の高度化にプラスとなります。今後、日韓はより(技術的に)高い次元の分業関係に入っていくと考えられます」(聞き手・杉山歩)