朝鮮人労働者の追悼碑、県が撤去した根拠は「後出し」だった? 議会も「全会一致」で採択したはずが…13年後に態度が一変(共同通信 2024/03/20)
 群馬県高崎市の県立公園「群馬の森」に建つ朝鮮人労働者の追悼碑。戦時中に動員された朝鮮人労働者の追悼を目的に建立された。市民団体が2001年に群馬県議会に請願し、自民党を含む全会一致で趣旨採択され、市民団体が県の許可を得て設置していた。

 ところが、2014年になって県と議会の態度は一変する。保守系団体などが、追悼碑の許可取り消しを求める請願を県議会に提出したところ、賛成多数で採択された。ほどなくして、群馬県も不許可にする。そして今年に入り、群馬県は追悼碑をついに撤去した。

 ただ、分かりにくいのは群馬県が不許可にした理由だ。市民団体が毎年開く式典で「政治的行事を行った」から不許可にするという

 確かに、群馬県はもともと許可した際にこんな条件を付けていた。

 「宗教的・政治的行事および管理は一切行わない」

 では、政治的行事とは何か。群馬県は、式典で市民団体が「強制連行」に触れる発言をしたことを問題視したどういうことなのか。そして追悼碑を巡って一体何が起きていたのか。(共同通信=重冨文紀)

▽戦時中に政府主導で労務動員

 まずは戦時中の朝鮮人労働者の移入について振り返ってみたい。日中戦争から太平洋戦争中の労務動員について幅広い資料から検証した東京大の外村大教授(日本近代史)の著書「朝鮮人強制連行」によると、概要はこうだ。

 日本政府は出兵などによる労働力減少を補うため、1939年から炭鉱や工場への労務動員を計画し実施した。朝鮮は当時、日本の植民地だ。動員形態は三つに分けられる。

 (1)企業が行政機関の協力を得て実施した「募集」
 (2)行政当局の主導性が強まった「官斡旋(かんあっせん)」
 (3)法的な強制力が伴う「徴用」

 多くの人は過酷な労働を強いられた。戦況の悪化とともに動員計画もふくれあがり、戦争末期まで続いた。

 そして、強制性を示す証拠はさまざまな形で残されている。日本の国策を背景に、現地では警官や労務補導員が各家を訪問し動員。実際に労働者は「おまえらが行かなければ親兄弟を皆殺しにする」と警官や役人から脅されたと証言(朝鮮人強制連行真相調査団「朝鮮人強制連行調査の記録 中国編」、2001年)。日本政府側の朝鮮総督府職員も動員について「仕方なく半強制的にやっています」と発言している(東洋新報社主催の座談会で、1943年)。さらには、徴用を忌避する住民には親類などから代わりを送り出すよう指示した記録も確認されている(朝鮮総督府「徴用忌避防遏取締指導要綱」、1945年)。

 こうした点を踏まえて、外村教授は強制性を指摘している。

 「経済的な事情から希望して来日する労働者も中にはいたが、何らかの意味での強制力をもつ日本国家の政策的関与のもと動員されたというべきだ」

 旧大蔵省の統計によると、1939~45年の計画に基づき、約72万人の朝鮮人が内地や樺太、南洋諸島に動員された。政府は戦後、動員された中国人の氏名や労務先の企業名などを調査しているが、朝鮮人についてはこれらの詳しい実態調査を行っていない。

▽朝鮮人追悼、自民党含む全会一致での採択

 このような歴史的背景を踏まえ、群馬県の追悼碑の経緯を確認したい

 発端は2001年。動員された朝鮮人労働者の追悼を目的に、市民団体が群馬県議会に追悼碑建立の請願を行い、自民党を含む全会一致で趣旨採択された

 市民団体側は、設置場所として旧陸軍の岩鼻火薬製造所の跡地である群馬の森を要望した。菊池実著「近代日本の戦争遺跡研究」によると、少なくとも約4600人の朝鮮人が県内でも動員され、沼田市の火薬製造地下工場などで働いた。群馬の森で朝鮮人が働いていたかは定かではないが、火薬工場があった縁で選んだ

 群馬県は市民団体に対し、「宗教的・政治的行事および管理は一切行わない」との条件を付けて許可。市民団体は570万円をかけ、2004年に設置した。

 群馬県や市民団体によると、「政治的行事」に該当する行為について、両者の間で具体的な説明や取り決めはなかった。

 碑文は群馬県や外務省とも協議して決めた。「過去の植民地支配によって、朝鮮の人々に多大の損害と苦痛を与えたという歴史の事実を謙虚に受け止める」とした小泉政権下の日朝平壌宣言(2002年)なども踏まえたという。市民団体側は当初、「強制連行」との文言を盛り込む考えだったが、県が難色を示し、「労務動員による朝鮮人犠牲者を追悼する」との表現になった。日本語とハングルで記した。

 ちなみに、日本政府は2021年4月、朝鮮半島からの労働者についてこんな答弁書を閣議決定している。「移入の経緯はさまざまであり、『強制連行された』とひとくくりに表現することは適切ではない」「『徴用』を用いることが適切」。碑文と政府答弁とは、少なくとも矛盾しない形だ。

 碑の管理は設置団体の後継となる「『記憶 反省 そして友好』の追悼碑を守る会」が担った。建立以降は2012年まで毎年、朝鮮人労働者の追悼式を碑前で開いてきた

▽保守系団体の抗議と県の態度変化

 変化が起きたのは、保守系団体「日本女性の会そよ風」などが「碑文が反日的」などとして街宣活動を行った2012年以降だ。群馬県には抗議の電話やメールが相次いで寄せられ、守る会は、翌年から式を別の場所で実施した

 守る会によると、2014年には設置許可の取り消しを求める請願を保守系団体などが群馬県議会に提出。賛成多数で採択された。群馬県はほどなくして、設置許可を更新せず、不許可に。2005、06、12年に開かれた追悼式で参加者が「強制連行の事実を訴え、正しい歴史認識を持てるようにしたい」と発言したことなどを問題視し、政治的行事に当たると判断した

 これに対して守る会は、追悼碑の敷地部分を買い取ることや、追悼式の自粛などの代替案を示したが、群馬県側はこれを拒否。公園外への移設を求めた。2014年、守る会は訴訟に踏み切った。群馬県の対応は表現の自由を侵害し違憲だとして、「許可の不更新という県の処分」の取り消しを求めたのだ

 2018年、前橋地方裁判所の判決では原告側が勝訴した。裁判所は、追悼式を政治的行事と位置付けた一方、追悼式によって具体的な支障は生じておらず、違反があってもオープンスペースとしての公園の効用は失われなかったと指摘。「処分は裁量権を逸脱しており違法」と判断した。

 しかし、2021年の東京高等裁判所の判決は県の不許可処分を適法とし、守る会側が逆転敗訴した。最高裁判所は2022年、守る会側の上告を受理しない決定をし、守る会側敗訴の判決が確定した

 その後、群馬県と守る会は碑の扱いについて話し合いの場を持った。群馬県は、人気のない河川敷や山中を碑の移転場所として提案した。守る会は人目に触れなければ碑の意義を失うとして承諾せず、存続や移転で合意できなかった

 県は2023年4月、都市公園法に基づく原状回復として守る会に撤去を命令。守る会側が応じなかったため今年1月29日から行政が代わりに撤去する「行政代執行」で工事を始め、2月2日に完了した。碑やその土台は撤去され、碑文などが記された金属プレートは守る会に返却された。費用は守る会に請求する。

▽友好ムードから緊張へ、保守系団体の影響力拡大?

 では、追悼式で「強制連行」という言葉を出したことは「政治的」なのだろうか

 先に書いた通り、「政治的行事」に該当する行為について、群馬県と市民団体の間で具体的な説明や取り決めはなかった。守る会は「強制連行」発言が問題視される認識もなかったという。県は最近の取材に対し「抗議や街宣活動が起こったこと自体が、式を政治的と推認させるもの」と答えた。

 事情に詳しい野党系の群馬県議はこう解説する。「碑を建立する請願が議会で可決された2000年代初めは、日韓日朝が友好ムードにあった」。群馬県出身の小渕恵三元首相(故人)も1998年の日韓共同宣言で、日本による朝鮮の植民地支配について「痛切な反省と心からのおわび」を表明した。これを受け、地元でも碑の設置に前向きな声が多かったという

 しかしその後、「北朝鮮のミサイル開発や拉致問題の停滞から緊張感が高まり、安倍政権下で一部排外主義的な勢力が発言力を増したことが、少なからず碑の存在にも影響した」。県議は撤去の背景を振り返る。「群馬でも行政や自民党の中心県議が、碑への抗議を無視できない立場になってしまった」。実際、碑の設置許可取り消しを求める請願が提出された際の紹介議員は、碑の建立請願が採択された保健福祉常任委員会の委員長(当時)で、自民党の中心人物だった。

 山本一太知事は行政代執行を控えた今年1月25日の記者会見で、「日韓、日朝関係を深める」と碑を評価した一方で、こうも主張した。「存在自体が論争の対象になってしまい、公益に反する」。最高裁判所の決定で判決が確定していることを繰り返し強調し、撤去の姿勢を崩さなかった。「碑文自体に問題があるとは思っていない。ルールに違反する行為が行われたことが問題で、撤去は歴史認識をねじ曲げることにはつながっていない」。反日的だ、との指摘については「私はそういう考えは持っていない」と説明したが、自らの歴史認識については「日本政府の立場と同じ」として明確にしなかった。

 これに対し、守る会の藤井保仁事務局長(75)は「碑の価値を認めながら撤去するのは、行政が加害の歴史継承を軽視した結果だ」と反論する。「他の自治体にある碑や説明文の撤去につながるかもしれない」と危惧した。

 記者は街宣活動を展開した「日本女性の会そよ風」にも取材を申し込んだが、返事はなかった。そよ風側はブログに「取材はお断りする」との記事を掲載した

▽自民党の杉田水脈氏は「うそのモニュメント」

 碑の撤去前には、アーティスト有志や労働組合などが県に対し、撤去中止を求める署名や要望書を群馬県に提出した撤去工事開始の前日に現地で開かれた学習会では、集まった市民らが献花し、撤去を惜しんだ。朝鮮の太鼓「チャンゴ」の演奏を習っているという埼玉県行田市の女性会社員(38)は、目に涙を浮かべこう話した。「日本人としての追悼の意がなかったことになるようで悲しい。2歳の娘にもいつか見せたかった」

 一方で、学習会には碑の存在に抗議する保守系とみられる人物十数人も押しかけ、警察官が警備に当たった。SNS上では「ルール違反だから仕方ない」と県に同調する意見もあった

 自民党の杉田水脈衆議院議員(比例中国)はX(旧ツイッター)で「うそのモニュメントは日本に必要ありません」などと投稿。「日本国内にある慰安婦や朝鮮半島出身労働者に関する碑や像もこれに続いてほしい」と書き込んだ。

 守る会の藤井事務局長は「負の歴史事実を認めず、『うそ』として消し去ろうとしている人間が政権にいること自体が残念」と話す。

▽苦情→説明変更の事例、各地に

 問題は群馬県のみにとどまらない。長野市にある「松代大本営」の象山地下壕(ごう)入り口の看板。長野市は、地下壕を作る際に「朝鮮や日本の人が強制的に動員された」と説明していた。しかし2014年、強制的だったという見解と、必ずしも全てがそうではなかったとの見解を併記する形に変えた。長野市のウェブサイト上の説明も見解を併記する形になっている。

 奈良県天理市では同じく2014年、飛行場の建設で「強制連行があった」とした説明板を市が撤去した。どちらのケースも、強制的動員という旨の説明について、行政に苦情が寄せられた。

 政府見解としては先に説明したように「(朝鮮人労働者の)移入の経緯はさまざまであり、『強制連行された』とひとくくりに表現することは適切ではない」との答弁書を2021年4月に閣議決定している。

▽撤去は「結果的には事実の否定に」

 判決確定後の群馬県の対応について、群馬大の藤井正希准教授(憲法学)はこう語る。「県は最高裁判所の決定で結論が出ているとして撤去したが、判決は設置不許可処分を適法としただけで、撤去まで求めたわけではない」

 2013年以降、碑の前で追悼式が開かれておらず、その間は具体的な公共の不利益はなかったと藤井准教授は指摘。「県は判決を踏まえ、現在の群馬県民の意思を再度問いかけるべきだった」と訴える。

 同志社大の太田修教授(朝鮮近現代史)は、史実の観点から碑の正当性を説明する。「証言や研究から強制連行があったことは認められ、政治的中立を逸脱する言葉ではない」

 すでに示したように、自らの意思で移動した朝鮮人もいた一方、強制的に動員され、深刻な人権侵害を受けた労働者の証言や資料が確認されている。

 太田教授は、追悼碑や説明板は戦争の記憶を継承し反省する重要な存在だと強調し、こう警鐘を鳴らす。「安易に撤去や修正すれば、結果的には事実を否定し、歴史修正主義に手を貸すことにもつながる」

【取材後記】
 追悼碑撤去が報道されると、インターネット上では「歴史認識ではなく、ルール違反したことが問題」などの意見が散見された。撤去を巡っては司法でも判断が出ており、確かに県の代執行にもある程度の正当性があるように思える。

 しかし、見てきたように群馬県が「ルール違反」を持ち出したのは抗議を受けた後だし、そもそも何が政治的行事かの取り決めもなかった。

 一方で、山本一太知事が言うように、碑が国の友好に資するのではあれば、県にとっても碑の存在は有益だったはずだ。ルール違反として撤去に踏み切れるだけの理由があったのか。疑問が残る。加害行為を反省する機会をみすみす手放しているように感じるからだ。山本知事は歴史認識の問題ではないと否定する。しかし、結果的に、強制連行を「うそ」と主張する保守系団体や杉田水脈氏の強弁を追認してしまっているのではないか。

 ただ、報道機関がこれまで追悼碑の問題を大きく取り上げてこなかったことも事実だ。歴史認識を巡る重要なテーマにもかかわらず、伝える努力が足りなかったと気付かされた。その反省も胸に、今後も取材を続けたい。