(中央日報 2022/11/10)

卞良均(ビョン・ヤンギュン)/元企画予算処長官

興奮したデモ隊が軍部隊工事現場の入口をふさいだ。国防部と警察は座り込みのためのテントを強制撤去した。一部のデモ隊は体に鎖をつないで激しく抵抗した。負傷者が続出した。

済州(チェジュ)海軍基地の建設過程であった衝突場面だ。済州海軍基地は2016年2月に竣工した。建設発表から竣工まで10年以上もかかった。海軍基地がある西帰浦市(ソギポシ)の江亭(カンジョン)村は2つに割れて深刻な葛藤が生じた。村の住民など約600人が懲役刑(執行猶予含む)や罰金刑を受けた。文在寅(ムン・ジェイン)大統領は2019年の三一節(独立運動記念日)特赦で19人を赦免・復権したが、割れた村の傷は残っている。

済州海軍基地は盧武鉉(ノ・ムヒョン)大統領の構想だった。陣営論理を超える実用主義的な決定だった。海軍基地は青瓦台(チョンワデ、韓国大統領府)安保室の所管だが、盧大統領は政策室長の私の意見も尋ねた。私は積極的に賛成した。盧大統領が支持勢力の反対を押し切って推進した政策は大きく3つ、韓米自由貿易協定(FTA)、済州海軍基地、イラク派兵だ。今回は済州海軍基地について話す

◆海軍の反対で変更された巨加大橋の設計

まず、個人的なエピソードがある。金泳三(キム・ヨンサム)政権当時の1990年代半ば、私は財政経済院で予算総括課長を経て予算第1審議官(局長級)になった。財政の責任を負う重要なポストだった。当時、建設交通部が大田(テジョン)~晋州(チンジュ)高速道路予算案を持ってきた。私は建設交通部の担当者に提案した。「慶尚南道統営(トンヨン、旧忠武)は観光都市なので、高速道路を晋州で終わらせずに統営までつなぐ方がよいのではないでしょうか」。建設交通部は検討の末、区間の延長を決めた。

そして建設交通部は慶尚南道巨済島(コジェド)と釜山加徳島(カドクド)をつなぐ巨加大橋建設計画を含めた。大田~統営高速道路から巨済を経て京釜(キョンブ)高速道路と連結する橋だった。当時、巨済は大宇造船・サムスン重工業など造船業を中心に人口も増え、成長のペースも速かった。ところが周辺の都市とつなぐ道路網がかなり不足していた。

橋を建設するのに最大の障害物は資金でなかった。海軍が強く反対した。当時、慶尚南道鎮海(チンヘ、現昌原市鎮海区)には海軍作戦司令部があった。海軍の主張はこうだ。巨加大橋は海軍艦艇が鎮海から釜山(プサン)側に出る途中に位置する。戦時に北朝鮮の爆撃機が南下して橋を爆破すれば誰が責任を負うのか。航路がふさがった海軍艦艇が立ち往生する状況が生じるということだった。

私は全く納得できなかった。休戦ラインからみて巨加大橋は最後方だった。最後方まで敵の精密爆撃を受ければ戦争はすでに終わったのと変わらない。しかし海軍の立場は頑強だった。財経院局長レベルの力では海軍を説得できなかった。青瓦台も仲裁に動かなかった。結局、巨加大橋区間の相当部分を海の下に入れて沈埋トンネルとして建設した。工事費は3000億ウォン以上もかかった。後に仁川(インチョン)大橋を建設する時にも似た論争があったが、結論は違った。海軍基地を仁川から京畿道平沢(ピョンテク)に移転し、仁川大橋は海上に建設した。

しかし鎮海海軍作戦司令部は2007年に釜山(プサン)に移った。巨加大橋が完工する3年前だ。最初から海軍司令部を移転して巨加大橋を海上に建設すればよかったはずだ。橋の上の景観も優れていただろう。本当に残念だ。

当時も海軍基地の立地をめぐる議論がなかったわけではない。私の考えはこうだ。鎮海は日帝強占期に建設された軍港だ。日帝は主要艦隊司令部を本土に置き、鎮海には海軍整備層整備廠を建てた。鎮海は周辺に島が多く海岸線も複雑であり、防御には有利な点はあるが、遠海に迅速に出動するには不利だ。

私は当時、海軍に基地を移転する意向がないか尋ねた。候補地は済州だった。「統一新羅で張保皐(チャン・ポゴ)は全羅南道莞島(ワンド)に清海鎮(チョンヘジン)を設置し、海上貿易を掌握しました。東中国海(東シナ海)や太平洋まで考えれば鎮海より済州のようなところがよいのではないですか。予算が必要なら可能な限り支援します」。その頃、海軍も内部的には似た発想をしたようだ。1995年の国防中期計画に済州海軍基地建設案が反映された。

◆「ハリネズミ論」で自主国防を力説

10年ほど過ぎて今度は盧武鉉大統領が済州海軍基地を本格的に推進した。盧大統領は海軍力の強化に特に注力した。国防部長官に約40年ぶりに海軍出身者(尹光雄長官)を起用するほどだった。国防予算も海軍に優先して配分した。盧大統領は有事の際、韓国の貿易路を守るためにも済州に海軍基地があるべきだと考えた。海洋水産部長官時代の経験も関連していたずだ。私に意見を求めた。「済州に行かなければいけないが、どう思うか」。私は当然、賛成だった。そして金泳三政権当時の経験を詳しく説明した。

盧大統領は「ハリネズミ論」を話した。いますぐ韓国が強大国と対等な戦力を保有するのは難しい。しかし我々に触れれば大きな被害が生じることを覚悟させるという論理だ。70年代に朴正熙(パク・ジョンヒ)大統領が自主国防を強調しながら使った言葉だが、盧大統領も似た考えだった。そのためには自らを守る力をつけなければならなかった。済州海軍基地こそが盧大統領が構想する自主国防の第一歩だった

盧大統領が海軍力の強化を苦心したのには日本との海上での葛藤が大きな影響を与えた。2006年4月[小泉純一郎政権時代]、日本が一方的に独島(ドクト、日本名・竹島)周辺の水路を調査するとして海上保安庁所属の探査船を送り込んだ。韓国は武装した海洋警察の船舶を出動させた。日本は自衛隊出動の可能性まで示唆して軍事訓練を行った

青瓦台は秘密会議を開いた。私は会議に入ってはいないが、後に内容を伝え聞いた。韓国海軍と日本自衛隊がぶつかればどうなるのか。韓国は数日しか持ちこたえられないという計算が出てきた。それでも強硬に対応しようというのが会議の結論だったまさか米国が韓日間の軍事的衝突を黙って眺めるだろうかという意見が多数だったという。結局、日本探査船は撤収し、自衛隊は出動しなかった

◆「平和の島にも非武装はない」

実際、盧大統領は韓日関係改善のために「会心のカード」を取り出したことがある。しかし不発に終わった。2006年10月の安倍晋三首相の訪韓当時だったと記憶している。安倍首相は訪韓中に国立顕忠院を参拝し、それなりに韓日関係に誠意を見せた。歴代の日本首相では初めてだった。6年後の2012年末の第2次安倍内閣発足当時とは雰囲気がかなり違った。

盧大統領と安倍首相は青瓦台で首脳会談をした。会談の後に盧大統領が不満を表した。自分の提案を安倍首相がすぐに拒んだという。「東海、日本海などと海の名称で争うことがある。漢字で青海(チョンヘ)、英語でブルーシー(Blue Sea)にするのはどうか」。盧大統領は安倍首相にこのように提案したという。西海(ソヘ)を黄海またはイエローシー(Yellow Sea)と呼ぶように、東海も第3の名称で呼べばよいのではないかという考えだった

しかし安倍首相は「実務陣から何も伝え聞いていない」と言って話を遮ったという。事前に実務協議もしていない話を突然なぜするのかという反応だった。盧大統領は会談後、日本側の態度についてもどかしいと言った。「それなら何のために首脳が会って話すのか。事前に調整された話以外は一言も話してはいけないのか。一度考えてみようと言うこともできるのに、最初から議論自体を拒む」。

盧大統領が済州海軍基地を推進したのには、そのような日本と中国を牽制するという意味があった。ただ、外交関係を考慮して公開的に話すことはなかった。盧大統領は海軍基地をめぐる論争が激しくなると、自ら説得に動いた。2007年6月に済州で地域の主要人物を集めて懇談会を開いた。この席で盧大統領はこのように強調した。「どんな平和の地にも非武装はありません。済州の海上に緊急事態が発生した場合、6、7時間かかる南海岸から来ることができるでしょうか」。

盧大統領が退いた後、済州海軍基地をめぐる状況はこじれた。デモ隊と警察の物理的衝突にまで広がり、国全体に混乱があった。竣工後6年以上経過したが、まだ痛みは消えていない。国の未来のための決定が一部の国民には傷として残った。今でも済州海軍基地のことを考えると胸が痛む。