(朝日新聞 2022/09/11)

 2012年5月18日、首相官邸執務室。野田佳彦首相は政府高官らをひそかに集め、切り出した。

 「尖閣諸島の購入に向けて作業を開始しよう。領土保全は、そもそも国がやるべき仕事だ」

 野田官邸にとって「尖閣国有化」を実現するには複雑な方程式を解く必要があった。尖閣を東京都が購入すると主張する石原慎太郎都知事と、尖閣諸島の地権者への説得、そして中国。この「三正面」を同時に解決しなければならない。

 官邸はこの日、少人数のタスクフォースを結成。石原氏には面識のあった長島昭久首相補佐官、地権者対策には長浜博行官房副長官、そして中国は外務省が担当すると決め、水面下で検討作業に着手した

 目下の難題は、石原氏の動向だった。約1カ月前の4月16日には米国で講演し、都が尖閣を購入すると表明。直後には、購入費を捻出する「寄付金」の募集も開始した。

 対中強硬の石原氏は尖閣への自衛隊常駐や構造物建設などを主張していた。政府は「都が購入すれば、日中は計り知れないダメージを受ける」(外務省幹部)と神経をとがらせていた。

 都が募集した「寄付金」はみるみる膨らみ、官邸は危機感を募らせた。野田首相は尖閣の先行購入の腹を固めていった。

 「石原知事があのような動きをしなければ、政府が尖閣を購入することはなかった」。長島氏はそう振り返る。石原氏に根回ししつつ、地権者との本格交渉で先手を打った。野田首相は7月7日、朝日新聞の「尖閣、国有化の方針」との報道を受け、尖閣購入方針を記者団に明らかにした

 最大の難関は、「国有化」の閣議決定に向け、中国との対立をどこまで和らげるかだった。日本は正規の外交ルートだけでなく、長島氏も独自のつてで中国側に「都よりも国が購入する方が平穏、かつ安定的に管理できる」と説いた。

 もちろん、中国側から肯定的な答えが返ってくるはずもない。ただ、野田官邸は「『暗黙の容認』の空気」(長島氏)を中国側から感じ取っていた

 8月15日、香港の活動家らが尖閣・魚釣島に上陸。海上保安庁と警察は事前に魚釣島に人員を配置。14人を逮捕し、起訴せずに強制送還した。長島氏は「一連のプロセスを中国側と共有していた。そこまでは『暗黙の容認』で握れていると思っていた」と明かす。だが、8月末には楽観論が急速にしぼんでいった

 国有化を決して認めないと思い定めていた中国も、日本の出方を読み違えた

 8月末に山口壮外務副大臣が訪中し、戴秉国(タイピンクオ)国務委員と長時間会談し、野田首相の親書を手渡した中国の環球時報は「野田政権の対話への意欲を示す動き」と伝えた。複数の政府関係者によれば、山口氏は中国側に、尖閣国有化を急ぐ官邸を「自分が何とかする」と説き、官邸の幹部には国有化の決定を遅らせるよう働きかけていた

 日本政府内でも、中国にどうメッセージを送るのか、一貫性を欠き、日中の認識のずれは拡大。習近平(シーチンピン)体制への政権移行期の中国はより態度を硬化させた。(肩書は当時)
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 日本政府が尖閣諸島の国有化を閣議決定してから11日で10年。当時の動きを検証すると、相手の出方を互いに読み違え、その後の日中関係を大きくきしませた様子が浮かび上がる。米中のあつれきも強まる近年、「尖閣」をめぐる安全保障環境も変化し、対立はさらに深刻化している。(編集委員・佐藤武嗣)


(朝日新聞 2022/09/11)

 「(直前の中国雲南省の)震災、大変でしたね。いつでも支援します」

 「(尖閣諸島の国有化に)断固反対する」

 約15分のやりとりは、まったくかみあわなかった。

 2012年9月9日、ロシア・ウラジオストクでのアジア太平洋経済協力会議(APEC)で、中国の胡錦濤(フーチンタオ)国家主席は野田佳彦首相から声をかけられ、両首脳の立ち話が始まった

 「(胡氏が)目も合わせず、能面のような表情だった」と野田氏は後日、朝日新聞の取材に語っている。

 胡氏に随行していた中国高官は「国有化の『化』の字は、何かを変えることを意味する。現状の変更だ。絶対に受け入れられない」と語った。

 わずか2日後に、野田政権は国有化を閣議決定する。急ぐ必要はないとの声は日本政府内にもあったが、「ようやく合意をとりつけた地権者が心変わりするかも」(政権幹部)との懸念があった

 首相補佐官だった長島昭久氏はこう明かす。「中国も体制移行期で、日本も政権交代の可能性が高まっていた。双方で政権が代わる前に(尖閣という)負の関係に決着をつけたかった」

 中国側は激しい反撃に転じる。共産党最高指導部の政治局常務委員のほとんどが、対日批判を展開した。極めて異例なことだった。

 なかでも厳しい言葉を連ねたのは、習近平(シーチンピン)国家副主席だった。9月19日にパネッタ米国防長官と会談した習氏は、「日本の一部の政治勢力はアジア太平洋諸国に与えた戦争の傷痕を深く反省せず、『(尖閣)購入計画』という茶番を演じ、領土の争いをたきつけた」と糾弾した

 複数の外交筋や中国専門家らによると、政権は緊張の高まりを受けて指導部内に「釣魚島(尖閣諸島の中国名)応急対策指導小組(グループ)」を立ち上げていた。トップの組長として対日攻勢を陣頭指揮したのが、習氏だった

 中国の100を超える都市で反日デモが繰り広げられた。参加者は暴徒化し、日本企業や日系スーパーなどが破壊、略奪され、火を放たれた。

 激しい衝突は、避けられなかったのか。

 中国共産党の外交部門の日本担当者は「2年前の漁船衝突事件の教訓もあり、当時、日本側とのコミュニケーションはとれていた」と語る。日本の官邸が「暗黙の容認」という楽観を抱いたのも、東京都の購入計画が浮上して以降、日中の政府間に一定の意思疎通があったことを物語る。

 しかし、7月、野田氏が尖閣の購入方針を正式に表明したあたりから中国側の潮目は急速に変わっていた。それまでの中国は「最後は野田首相が東京都を止めるだろう」(中国外務省中堅幹部)との考えから、水面下で事態の着地点を模索していた。

 中国側の不信を決定的にしたのが、野田氏と石原慎太郎・東京都知事が8月後半に行った会談だった。中国を刺激しまいと極秘で行われたが、これがかえってあだになった。

 石原氏が記者会見で「首相と1時間半話した」と暴露。政府は石原氏の強硬論を退ける形で都の上陸申請を不許可としたが、中国に政府と都の立場の違いは十分に伝わらず、中国側は「やはり野田氏と石原氏は一体」との疑念を強めた

 尖閣国有化の2カ月後、5年に1度の中国共産党大会で習氏は胡氏の全ての役職を譲り受けた。中国の指導者が、「領土」をめぐって弱腰を見せることは許されない。翌年春、匿名を条件に取材に応じた党中央委員はこう語った。

 「断固たる対応が、民意の高い支持を集めているという報告が全国から上がってきている。釣魚島の問題は譲歩したら政権がつぶれる、そういう問題なのだ」(編集委員・坂尻信義、北京=林望)

■台湾巡る米中対立、重なる構図

 尖閣国有化を受け、中国は本格的に動き出した。閣議決定3日後の9月14日、中国海洋監視船「海監」6隻が二手に分かれて尖閣周辺の領海に侵入した。過去最大規模だった

 中国は尖閣周辺の接続水域・領海への侵入を常態化させ、その能力も増強している。国有化の12年には、海上保安庁は1千トン以上の巡視船を51隻保有し、中国公船の40隻を上回っていたが、すぐに逆転。中国はいまは約2倍の隻数を持つ

 尖閣周辺海域では、常に海保巡視船と中国公船が対峙(たいじ)する状態が続く。中国公船が無線を通じて日本に「貴船は中国の領海に侵入している」と主張すれば、海保も「尖閣諸島は日本の領土である」と応酬する光景は、日常茶飯事だ。

 元海上保安庁長官の佐藤雄二氏は、「島を絶対に取られてはならない。一方、事態をエスカレートさせてもいけない。二つの使命をどう両立させるかが最大の課題だった」と緊張感と対応の難しさを振り返る。

 中国は18年、海警局を中央軍事委員会の指揮を受ける武警の隷下に編入し、沿岸警備隊にとどまらず、軍事的色彩も強めた。昨年2月には、外国が管轄海域内に建造物などを建てた場合は排除でき、従わない場合に強制措置をとれる「海警法」を施行した

 一方、日本も手をこまねいてはいない。海上保安庁は16年、中国公船に対応する14隻相当の「尖閣領海警備専従部隊」を完成。最新鋭の大型巡視船を配備し、強化を図る。尖閣警備最前線の石垣海上保安部は今や、横浜や神戸をしのぐ海保最大の拠点となった

 緊張は続きつつも、海保幹部は「中国側にも一定の自制が見られる」と語る。中国は公船を増産し、大型化・武装化を図る一方、尖閣周辺の接続水域・領海への侵入頻度や隻数に大きな変化はないという。「活動拡大の口実として日本側のミスを待ち構えているようで不気味だ」

 だが、こうした「自制」は、いつまで続くのか。

 中国は一歩も引かない構えは崩していない。日本側でも尖閣をめぐる強硬論がくすぶっている

 昨年の自民党総裁選では候補者の高市早苗氏が「海警法に対応できるよう海上保安庁法の改正にも取り組むべきだ」と訴えた。

 警察組織で「緩衝材」としての海保・海警のせめぎあいだけでなく、懸念されるのが自衛隊と中国軍の衝突だ。13年1月には中国海軍のフリゲート艦が海自護衛艦に火器管制レーダーを照射し、緊張が走った。また、中国が尖閣上空を含む防空識別圏を一方的に設定したことで、日中の戦闘機などの衝突も起きうる

 尖閣の緊迫化は台湾をめぐる米中対立も影響する。

 今年8月のペロシ米下院議長の台湾訪問後、中国は台湾を取り囲む形で実弾軍事演習を実施し、対立をエスカレートさせた。

 中国の対応を、自民党の閣僚経験者は「事前に準備し、相手の行動を口実に軍事活動を活発化させ、既成事実を積み重ねる常套(じょうとう)手段だ」と尖閣国有化の際の行動と重ね合わせる

 台湾有事となれば、尖閣諸島に飛び火し、日本有事の引き金を引く可能性は否定できない。尖閣周辺海域で、必死に中国公船の侵入阻止に努めてきた佐藤元海保長官は、こう訴える。

 「軍事的にエスカレートする事態は日本の憲法も世論も望んでいないはずだ。力対力ではなく、法の支配に基づいた対処の重要性が増している。海保は沈静化を目指してきたが、(現場では)この問題は解決できない。政治、外交、経済で打開策を見つけてほしい」(肩書は当時)(編集委員・佐藤武嗣、古城博隆)