(朝日新聞 2021/04/15)

 韓国で昨年、慰安婦問題に大きな影響力を持つ支援団体の前理事長が在宅起訴され、韓国社会に波紋を広げた。慰安婦問題をめぐり、韓国で何が起きていたのか。進まない「日韓の和解」をどう考えるべきなのか。東亜日報で編集局長などを務め、日韓関係を長年見つめてきた沈揆先さんは「聖域が崩れた」と指摘する

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元東亜日報編集局長・沈揆先さん
シム・ギュソン
1956年生まれ。韓国紙・東亜日報で東京特派員、政治部長、編集局長などを歴任。現在は国民大大学院博士課程に学びながら、同大で教壇にも立つ。韓日フォーラム運営委員。


 ――事件はどんな内容ですか。

 「元慰安婦らを支援する最大の団体『正義記憶連帯』(旧挺対協)の前理事長、尹美香(ユンミヒャン)氏(現国会議員)が昨秋、約1千万円を横領したとして業務上横領や詐欺罪などで在宅起訴されました。団体と長年活動をともにしてきた元慰安婦の告発がきっかけです」

 「慰安婦問題はこれまで、支援団体がキャスティングボートを握っており、韓国政府が支援団体の顔色をうかがわなければならないほどでした。私は事件が持つ意味や、支援団体への批判がタブーだったことの反省も踏まえ、『慰安婦運動、聖域から広場へ』という本を緊急出版しました」

■支援団体に力、監視機能果たせず

 ――「聖域」とは?

 「率直に言えば、日本に関する報道には二つの『自己検閲』が存在しました。一つは韓国が不利になる、あるいは日本を利するような記事を書くのが難しいこと。もう一つは、日本の責任を追及する団体を批判しにくいことです前者は最近、かなり改善されました。例えば現職大統領が独島(竹島)を訪問したことや、現在の文在寅(ムンジェイン)政権が日本との安保協力の破棄を表明した時など、韓国メディアも批判しました。でも、慰安婦支援団体に対しては、ほとんど批判をしてきませんでした。今回の事件で、その聖域が崩れたと言えるでしょう

 「韓国における慰安婦問題は、日本の拉致問題のようなものだと言えば理解してもらえるでしょうかともに国が関与して人権を脅かした問題であり、国際的なテーマに飛び火しました。長い間、被害者が大きな声を出せずにいて、加害者に善処を訴える点も似ています。被害者を支援する組織に対し異論があっても、正面から批判するのは難しい。日本でも同じことではないですか

 ――なぜ支援団体の力がそこまで強くなったのでしょうか

 「支援団体は慰安婦問題を、日本帝国主義から受けた被害というだけでなく、世界各地で起きている女性の人権問題に普遍化するのに大きな役割を果たしました。また、かつては数百人の元慰安婦が生存していたため注目され、長期間活動してきた支援団体を国民と政府が全面的に支援したことで影響力を持っていったのです」

 ――日韓関係を長く見てきた沈さんでも、支援団体のことは書きにくかったのですか

 「私はジャーナリストとして後悔しています。支援団体の非を報じられなかったためではありません。社会の空気のようなものにメディアが順応し、支援団体を批判の対象から外したことは明らかな職務放棄です。今回の事件も、もとを正せばメディアが本来の監視機能を働かせなかったため、とも言えます」

 ――その聖域を崩したのがほかならぬ元慰安婦だったのは、何とも皮肉な話ですね。

 「約30年間にわたって支援団体と密接な関係を築いてきたおばあさんが、お金の問題を暴露しました。尹氏らが『生き証人だ』と強調してきた人物の証言だけに、反論できないのでしょう。その意味で韓国メディアは、このおばあさんに大きな借金をした格好です。この顚末(てんまつ)を記録に残す必要がある。本来なら現場の記者がやればいいのですが、時間に追われて余裕がない。それで私が急いでまとめました」

 ――本に対する韓国での反応はどうですか。

 「書評に取り上げられ、言論界や研究機関で発表の機会を与えられています。支援団体側からの反応はなく、抗議も受けていません」

■批判し合う雰囲気、足りなかった

 ――聖域が崩れたことで、今後、対日問題を自由に議論できるでしょうか。政府間の交渉にも影響を及ぼすと思いますか。

 崩れたのは、あくまでも『報道の聖域』です。事件によって、韓国社会全体が日本との問題を自由に議論できるようになった、ということではありません。韓国で『親日』と言えば、かつての日本に協力した背信者などを意味する表現ですが、この言葉も否定的な意味で使われ続けるでしょう」

 「ただ私は韓国社会が、ゆっくりではあるものの、全体として良い方向に向かっていると確信しています。例えば20~30年前までは、韓日関係が悪化すれば、日本を糾弾する大規模集会が開かれ、日本人は食堂に入れなかったり、タクシーに乗れなかったりしました。だが、もうそんなことはありえません。そういった雰囲気は政治交渉にも影響するはずです。少なくとも支援団体が政府の上に君臨することはないでしょう」

 ――日韓間ではこれまで慰安婦問題で和解の動きがありましたが、うまくいきませんでした韓国側の問題は何だと思いますか

 『実現不可能な最善』を目指す支援団体などが反対し、『実現可能な次善』を拒否してしまったことです。その他にも二つの問題があります。まず歴史問題において韓国国民の期待値が非常に高いということです。日本企業に賠償を命じた大法院(最高裁)の判決や、慰安婦問題で日本政府の責任を認めた今年1月の地裁判決は、民意を反映しています」

 「もう一つは、政権ごとに対日政策が異なり、前政権の業績を継承したり、尊重したりできなかったことです。朴槿恵(パククネ)・前政権が日本と交わした慰安婦合意を、文政権が骨抜きにしたのが代表例です。ただ韓国では、こんな現象はある程度ありえます。最大の問題点は、こうした問題を公開で論議し、批判しあい、調整する雰囲気や意志が足りなかったことです」

 ――日本との過去の問題で文大統領が常に口にする「被害者中心主義」とは、何を意味しますか。

 「被害者の意向を最重視して交渉に臨むということでしょう。この考え自体、悪くないと思いますが、実践するためには必ず守るべき原則があります。『被害者はそれぞれ異なる要求ができる』『支援団体が被害者の考えを勝手に決めてはならない』『被害者は十分な情報を与えられる』といったことです。だが今回の事件を通じて、これらの原則は守られていなかった疑いが強まった。私は、被害者中心主義が『被害者利用主義』や『支援団体中心主義』に変質した、と批判しました」

 ――沈さんも理事を務めた「和解・癒やし財団」も解散し、日本政府は、一方的な解散は合意違反だと非難しました。日本側に問題はなかったと考えますか

 「大ありです。そもそも合意の目的は、過去の問題を終わらせることではなく、関係改善の障害になる問題を整理することで、未来志向的な関係に進むことにありました。つまり合意は、未来のための管理の始まりだったのです。ところが日本政府は『合意してお金を出したから、もう完全に終わった』との態度で、合意文にある『心からの謝罪と反省』とは程遠い。だから韓国では、合意を先に破ったのは日本だ、と主張する人もいます」

 「合意直後は韓国でも比較的支持されましたが、当時の安倍晋三首相が被害者らに手紙を送る考えは『毛頭ない』と述べたことなどで、急速に世論が悪化した。日本は韓国に『一体何度謝れと言うのか』と言いますが、韓国は日本に『一度でいいから謝れ、ただし本気で』と言っているのです」

■日韓和解のため「互いに譲歩するしかない」

 ――日韓の間には徴用工問題もあります。解決策として文喜相(ムンヒサン)・前国会議長が出した法案が、廃案になりました。

 「法案の概要は、韓日の企業と両国民の義援金などで基金を作り、強制動員された被害者に慰謝料を支払う。そしてすでに勝訴判決を得た被害者は賠償金をもらう権限を放棄し、未提訴の被害者は裁判に訴えず、慰謝料を受け取るというものです」

 「法案に反対の人は、いわゆる日本の『戦犯企業』に免罪符を与えることになるし、慰謝料の受け取りを拒否する人の提訴は防げないと言います。でも私はこの案を評価します。司法と行政の悩みを、被害者である韓国の立法府が解決しようとしたからです。無視するのではなく、これを土台にさらに良い案を作ってほしい」

 ――日韓両国の和解のために、何が必要でしょうか。

 「本当に和解を追求するのなら、互いに譲歩するしかないことを認めるべきです。相手に先にひざまずけと求めても、何も解決しません」

    ◇

■和解・癒やし財団とは

 2015年の日韓慰安婦合意に基づき、元慰安婦らを支援する目的で、日本政府が拠出した10億円をもとに韓国政府が設立。生存する元慰安婦への支援規模は1人1億ウォン(約1千万円)で、対象者の7割以上(47人中35人)が受け取った。だが文在寅政権は、元慰安婦らが納得していないとして合意を形骸化し、19年に財団を解散した。

慶応大学教授・西野純也さん「新たな日本、いかに若い世代に知ってもらうか」

 日本との過去の問題に取り組む韓国の団体は、韓国政府が消極的にしか対応してこなかった問題に光を当ててきた、という功績があります。他方、負の部分もある。

 例えば、日本政府に「法的責任」のみを求め、「道義的責任」程度では一切認めないといった、かたくなな態度に終始し、問題の構図をあまりに単純化してしまったことです。それは団体の主張をそのまま報じてきた韓国メディアの責任でもあります。

 今回の「尹美香事件」により、韓国メディアも聖域視されていた一部団体を批判できるようになったのは事実でしょう。ただ政権と市民団体の関係が強い韓国の現状では、社会の歴史認識の変化が急激に起こるとは思えません

 厳しい対日認識が解消されるための必要条件の一つは、現在の政治・社会の主流にいる「86世代」と呼ばれる勢力が、次世代と交代することです。だが彼らは、自分たちの理念的な対日認識やナショナリズムを再生産して、若者世代に伝えています。

 他方、若者世代は日本や日本人への劣等感がなく、対等な相手として見ており、古い対日認識を敬遠する人も少なくありません。86世代のような認識と、若者の新しい感覚とが併存しており、世代がかわれば関係が良くなるという単純なものでもないのです。

 韓国の政治・社会で「保守対進歩」という対立構図が続く限りは、進歩は保守をたたく手段として「親日派」といった言説を使い続けるでしょう。それが日本から見れば結果的に「反日カード」を切っているように映る

 日本としては、若い世代に対し、いかに「新たな日本」を知ってもらい、これまでとは異なる対日認識を持ってもらうかが重要になってきます。

 歴史問題のこれまでの取り組みや努力に逆行する発言は慎む。そういう言動を社会が認めない。1990年代以降の取り組みをしっかり説明する。「日韓請求権協定で解決済み」という主張を崩さなくてもできることを探す。日本がこれらの点に注意すれば、状況は少しずつ変わるはずです

 日韓が互いに「安倍が」「文在寅が」などと相手を単純化しては、相互理解も、またそれに基づく関係構築も進みません。(聞き手=いずれも論説委員・箱田哲也)


>韓国における慰安婦問題は、日本の拉致問題のようなものだと言えば理解してもらえるでしょうか

理解できませんね。