【コラム】高宗の虚勢を想起させる文大統領の6兆ウォン軽空母ショー
(朝鮮日報 2021/01/17)

〇文在寅(ムン・ジェイン)劇場、ポピュリズム政権とはいうものの
〇6兆~10兆ウォン投じて不用意にも韓国軍の戦力を害する軽空母ショーまでやるとは思わなかった

 高宗が1903年に3400トン級の軍艦を海外から購入したという意外な事実を、本紙の朴鍾仁(パク・チョンイン)記者の記事で読んだ。その軍艦は80ミリ砲4門で武装していた。今の韓国海軍の次期護衛艦が2800トン級で全長122メートルに達するので、3400トン級といえばかなりの規模の軍艦だ。当時、朝鮮は世界の最貧国だった。国とはいうが、既に崩壊した状態だった。海軍はもちろん、陸軍すら有名無実だった。そんなありさまでなぜ、どういう資金で運用するつもりで3400トン級の軍艦を購入したのか。答えは、当時の国防長官の上疏(じょうそ、事情を書いた書状を上にたてまつること)にある。

 国防長官は高宗に「大韓帝国は3面が海なのに1隻の軍艦もなく、隣国に対し恥ずかしい」と訴えた。軍の作戦上の必要に対する言及はなく、「恥ずかしいから」軍艦を買おう、と言った。同年4月にこの軍艦が済物浦港に入った。「揚武」号だ。ところが揚武号は、一度たりとも軍の作戦に投入されたことがない。航海自体がなかった。もともと作戦用ではなく誇示用だった。最初にしておそらく唯一だったであろう任務は、高宗の即位40年を祝う礼砲の発射だったという。それさえも発射できなかった。調べてみると、いい加減に修理したぼろ船だった。これに、年間の国防予算の4分の1を使い果たした。管理費や利子も出せなかった。高宗は軍服まで外国から輸入した。高宗にとって軍隊は、虚勢を張る誇示用だった。最近の言葉でいえば、ショーの道具だった。

 韓国の文在寅(ムン・ジェイン)大統領が、艦載機十数機の軽空母を配備するという。専門家らの反対でもたついているようだが、最終的に軽空母事業を強引に軍の中期計画に含ませた。韓国国民の税金6兆ウォン(現在のレートで約5700億円。以下同じ)台が投じられる事業だ。実際には10兆ウォン(約9500億円)を超えるだろう。このニュースを聞いて高宗の揚武号が思い浮かんだのは、この軽空母を巡る韓国軍の作戦上の所要が何なのか分からないからだ。空母は基本的に、広い海域の制空権を握るための戦力だ。米国、英国、旧日本、ロシア、フランス、イタリアなど海が広く、海外領土を持っていた国々に必要だった。最近中国がこれに加わっており、日本も空母再建に乗り出した。中国は海岸線の長さだけで1万キロに達し、日本はEEZ(排他的経済水域)が韓国の8倍を超える。九州から太平洋の南鳥島までの距離は1800キロに達する。韓国は、守るべき海が広くない。陸上基地から発進する戦闘機が東海、西海、南海のEEZのどこであろうと速やかに到達する。空中給油機の配備で独島、離於島も十分な作戦範囲内に入った。韓国そのものが空母なのだ。

 韓国政府は、軽空母で東南アジア方面の海上交通路を保護するという。海上交通路の保護は、米国を筆頭とする国際社会全体の課題だ。マラッカ海峡のような海上交通路を遮断するとしたら世界に対する宣戦布告だが、今そんな国がどこにあるのか。軽空母一隻で海上交通路を守るというのも話にならない。空母は自らを守ることはできず、駆逐艦・潜水艦などと艦隊を組まなければならない。別途の早期警戒機も必要だ。北の脅威に対応するのも多忙な韓国が、こんなことをできるのか。何をしたくてこの巨額のカネをばらまくというのか。

 韓国政府は、北朝鮮のミサイルが韓国空軍の基地を破壊した場合に備えるという。韓国の空軍力の95%が陸上にある。十数機の戦闘機を載せる軽空母の戦力は5%にもならない。軽空母に使う6兆ウォンがあれば、戦力のほとんど全てがある空軍基地の防御力を画期的に高めることができる。射程距離が数百キロに達する超音速、極超音速対艦ミサイルの開発も早まる。もし中・日の空母が韓国の領海を脅かすのであれば、じきに開発される韓国の超音速対艦ミサイルを覚悟すべきだろう。ところが中・日は既に超音速対艦ミサイルを保有している。軽空母は作戦上の利得が少なく、危険は極めて大きい、6兆ウォン台の大型標的だ。

 さらにとんでもないのは、軽空母用のF35B戦闘機を購入する一方、既存のF35A戦闘機の購入を後回しにするということだ。垂直離着陸機のF35Bは、値段がF35Aより実に50%も高いが性能はずっと低い。北朝鮮の地下バンカーを破壊する1トン級の大型爆弾は積むこともできない。作戦半径もはるかに狭い。韓国に必要なのは絶対的にF35Aだが、軽空母を配備するといってこの中心的戦略兵器の配備を先延ばしにするのだ。先延ばしにして、うやむやになるだろう。金正恩(キム・ジョンウン)が一番喜ぶニュースだ。

 軽空母配備の発表は、日本がヘリコプター搭載護衛艦をF35B搭載軽空母に改造すると公表した後に出てきた。非専門的かつ幼稚な競争心理だと思う。高宗時代になぞらえるなら、「日本に比べて格好がつかない」というものではないか。実質的な作戦用なのか、虚勢用なのか。タイは虚勢用の空母を配備し、王室の儀典用として使っている。軽空母級のサイズの大型輸送艦「独島」は、既にアジア最大の「行事用」艦艇と呼ばれる。航海の日数より港に停泊している日数の方がはるかに長い。こんな船がもう1隻増えることになった。それでも、予算6兆ウォンを取ることになった海軍は喜び、反対すべき空軍は文大統領の顔色をうかがっている。ショー統領、ショー政権とはいうが、6兆-10兆ウォンを投じて、必要もなく軍の戦力を害する軽空母ショーをやるとは思わなかった。楊相勲(ヤン・サンフン)主筆


揚武 (大韓帝国軍艦) ウィキペディア一部抜粋

揚武または揚武号は、大韓帝国が保有した最初の軍艦である。前身はイギリス製の貨物船で、日本で商船として使用されていたものを購入した。日露戦争中は、日本海軍の仮装巡洋艦揚武(ようぶ)として使用された。

船歴

前身

本船は、イギリスのミドルズブラに本社を置く造船会社レイルトン・ディクソン(en)により建造され、1888年2月にサンダーランドで進水した。イギリス船籍において「パラス」(Pallas)の船名で運用されていたところ、1894年(明治27年)8月に日本の三井物産合名会社が25万円で購入して「勝立丸」(かちだてまる)と改名した。三井物産では、門司港・口之津港・香港・シンガポール・南洋諸島間の貨物航路で運航されていた[5]。

大韓帝国軍艦

1903年(明治36年)4月1日、本船は軍艦としての改装工事を受けて大韓帝国に売却され、高宗により「揚武」と改名された。初代艦長は第一次官費留学生で日本の東京商船学校を卒業した愼順晟。

大韓帝国はこれ以前の1893年に近代海軍の創設を試みて海軍士官学校を開校するなどしていたが、日清戦争中の1895年に日本によって中止を強いられていた。そのため、本船が大韓帝国軍にとって最初の近代軍艦となった。なお、日本の新聞記者の塩崎誓月によれば、「揚武」導入の目的は、1903年に予定された高宗即位40周年記念式典において各国軍艦との間で礼砲を交わすためであったという

搭載兵装は、船首楼と船尾楼の両舷に12cm単装砲を各1基(計4門)、船橋と船尾楼の両舷に47mm単装速射砲を各1基(計4門)である。Kang (2008) によれば、売買代金は当初55万ウォンであったが、あまりに高額であるとして多くの国民から批判を受けた。交渉の末に20万ウォンに減額されたが、大韓帝国政府にはその支払も困難で、三井から毎月5,000ウォンを高利で借り入れしなければならなかった。

日露戦争

日露戦争が勃発すると、本船は臨時に日本海軍によって使用されることになった。日本海軍編さんの『極秘明治三十七八年海戦史』の『第一部 戦紀』によれば、開戦直後の1904年(明治37年)2月9日の仁川沖海戦時に、本船は韓国軍艦として仁川港に停泊中であったが特段の行動をしていない。他方、同書の『第七部 医務衛生』巻十二では、開戦当時、本船は三井物産が大韓帝国政府から借り受けて日本へ回航、横須賀軍港に係留中であったとしている。同年2月27日、本船は日本海軍と三井物産の傭船契約により、解傭された仮装巡洋艦「八幡丸」の代わりに呉鎮守府所管の仮装巡洋艦「揚武」として使用されることになり、横須賀海軍工廠で所要の改装工事を受けた。兵装類は既存のままで、弾薬庫増設のほか、倉庫や居住設備の改装が工事の中心であった。

1904年3月23日にほぼ艤装を終えた本船は、佐世保軍港を経て海州に進出し、同年4月28日に同地で第三艦隊に編入された。同年5月初旬に第2軍乗船の輸送船団第1梯団の護衛と遼東半島塩大墺への上陸援護を行った後、山東半島沖の裏長山列島錨地を拠点に、艦船や海軍陸戦重砲隊に対する補給、洋上警戒、掃海部隊の援護等に従事した。9月、乗員に腸チフスが流行したことから、消毒と整備などのため佐世保へ帰投した。

1904年10月からは第7戦隊に編入されて渤海の警戒監視任務に就いていたが、1905年(明治38年)2月に戦艦「八島」の元乗員114人を便乗させて、仮装砲艦3隻を護衛しつつ佐世保に帰投した。本船は呉軍港に回航されて船体検査を受けた結果、船体も機関も老朽化していて軍艦としての使用は不適当と判定され、2月19日に解役の内命が示された。3月9日に佐世保で元山防備隊に引き渡されて乗員は総員退艦、6月28日に解傭された。

日露戦争後

日露戦争後に本船は大韓帝国政府の下に戻されたが、1909年(明治42年)11月に合資会社原田商行が42,000ウォンで落札し、「勝立丸」として日本の商船籍に戻っている[14]。1913年(大正2年)に原田商行から八馬財閥の八馬商店に売却された。当時、八馬商店船舶部は、本船を含めて中古商船11隻を次々と購入して船隊を増強中であった。しかし、本船は、第一次世界大戦中の1916年に海難事故により沈没した