(ソウル新聞 韓国語 2020/11/17)

〇イ・サング還収委員会委員長インタビュー...日帝強制収奪に背を向けてはならない

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▲日本帝国主義の強制収奪で日本に搬出されて東京ホテルオークラの庭園に100年以上寂しく立っている利川五層石塔。

「韓国の地を眺めながら100年以上立っている利川五層石塔に背を向けることは、日本帝国主義の強制収奪を認めることになる。利川五層石塔は私たちの物であることは明白であり、不法搬出のため、必ず返してもらわなければなりません。」

17日、ソウル新聞と会ったイ・サング(67)利川五層石塔還収委員会委員長は、去る12年間の返還運動の終わりが見えないとため息をついた。

利川五層石塔[利川郡浄土寺址五重塔]は、高麗初期に作られた均衡美が優れた国宝級文化財で、利川郷校のそばに位置していた。文化財蒐集狂であり、日本の企業家・大倉喜八郎の手中に入り、1918年、仁川税関を通じて日本に搬出された。以後、東京のホテルオークラの庭園に平壌の栗里寺址から搬出した同じ高麗時代の石塔である八角五層石塔[平安南道大同郡栗里寺址 八角石塔]と共に寂しく立っている。

イ委員長はこの日、「大倉[大倉集古館(大倉文化財団)]から景福宮資善堂の遺構(基壇と礎)が1995年12月、サムスングループのサムスン文化財団を通じて返ってきた先例がある」とし「去る12年間、仏教界と国会など通じて百方に努力してきたが進展がなかった。わずかな希望だがホテルオークラ側と懇意にしているサムスングループが利川五層石塔返還に乗り出せば可能になるかもしれない」と述べながら残念さを吐露した。

彼はまた、利川五層石塔返還で、冷え込んだ韓日関係改善の契機になることを願うと付け加えた。

景福宮資善堂は世子[王の世嗣ぎ]が起居していた場所だが、1915年、大倉喜八郎によって日本に解体され運ばれ、ホテルオークラで『朝鮮館』という名前で別棟となり、1923年、関東大地震の時に焼失した

以後、資善堂の基壇と礎は焼けたまま放置され、1993年、当時キム・チョンドン[金晶東]牧園大学名誉教授が見つけ出し、多方面の努力の末にサムスンの新羅ホテルがホテルオークラと姉妹ホテルの関係という縁で、サムスン文化財団が返還を受けて国に寄贈したのだ
※ホテルオークラが運営するホテルグループ『オークラ ホテルズ&リゾーツ』のメンバーに新羅ホテル(1979年3月開業)が入ってます。

イ委員長は「1918年に大倉[大倉集古館理事の阪谷芳郎]と朝鮮総督府が取り交わした手紙を見ると、大倉は先に移築した景福宮資善堂に飾る石塔が必要として平壌電車場[停車場]前の6角7層石塔[弘福寺七層石塔]を要請したが、朝鮮総督府は人の往来が多いという理由で利川五層石塔を推薦した」とし「総督府の許可は利川五層石塔の明らかな日本政府次元の不法搬出の証拠」と強調した

利川五層石塔還収委員会は、2008年8月15日の光復節を迎え、利川の市民団体32個が発隊式を通じて還収運動に初めて足を踏み入れた。

イ委員長は「還収委の石塔と高麗青磁の永久交換、賃貸交渉などの努力と32回の訪日交渉にもかかわらず、大倉文化財団は利川五層石塔は法人登録されたもので返すことは難しいという言い訳をしている」としながら「還収委の永久賃貸の提案に、大倉文化財団は宝物級[日本の重文に相当]以上水準の文化財との対等交換を要求するなど事実上、拒否している」と残念がった。

彼は「数回にわたる解体・復元で、毀損が激しい石塔の継ぎ目部分を石灰で上塗りするなど、毀損が深刻だ」とし「大倉文化財団は石塔補修専門家を送って補修するという還収委側の要請も断った」と憤った。

イ委員長は「先月、市民の募金で還収祈願塔を実物の大きさで製作し、市庁広場に設置した。石塔の雄壮さと粋を利川市民にお見せし、後代ででも利川五層石塔を還収しようという決然とした意志を込めようと思った」と明らかにした。

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▲イ・サング委員長が先月17日に利川市庁広場に立てられた利川五層石塔の模型塔を見回している。

オム・テジュン市長は「利川五層石塔は日本でなはなく、まさにここ、利川にあるときが最もしっくりして、最も美しいという事実を知らせるために模型塔が立てられた」と述べた。(機械翻訳 若干修正)


 景福宮資善堂の遺構、元の場所に戻る
(東亜日報 2013/07/13)

どんな運命がこれほど数奇だろうか。世子に仕えた輝かしい時代は、国を奪われ、消えてしまった。悲しみが止まる前、全身が解体され、大韓海峡を渡って、他郷に連れて行かれた。それでも足りず、地震や火災を経験し、体はドカンと崩れ…。80年ぶりにようやく祖国の土を踏んだが、隅の部屋の居候の扱い。そうしてまた約20年、いよいよ、自分の居場所を取り戻せる光が差しはじめている。

景福宮(キョンボクグン)の東宮「資善堂」の物語だ。日本植民地時代、景福宮の受難の歴史だった資善堂の遺構(過去の建築物の痕跡)を元の場所に戻す案が推進されている。ほぼ100年ぶりのことだ。取り戻した文化財に見合う地位を取り戻すべきだという意味から、文化財庁はもとより、文化財委員会や学界も前向きであり、資善堂遺構の元の居場所探し事業に、追い風が吹くものと見られる。

「情け深い気性を養う」という意味の資善堂は、元々世宗(セジョン)9年(1427年)、当時の世子だった文宗(朝鮮王朝の5代目の王)とその后の寝室として建設された。壬辰倭乱(文禄の役)の時、倭寇によって一度焼ける苦難に見舞われたが、興宣(フンソン)大院君が再び建設し、1915年、日本帝国が日本に持出した。

当時、朝鮮統治5周年を迎えて、朝鮮物産共進会を開いたが、景福宮のいたるところを取り崩し、その資材を民間に売りさばく蛮行を犯したのだ。このとき、日本人事業家の大倉喜八𩒐[喜八郎]が、東宮部材を買い入れ、東京に持ち帰って組み立てなおした後、私設の美術館として使った。しかし、10年足らずの1923年、関東大震災が発生し、基壇(建築敷地に積んだ壇)や礎のみ残し、全てが焼け落ちた。

そのように、資善堂は忘れ去られるところだったが、牧園(モクウォン)大学・建築学科の金晶東(キム・ジョンドン)教授(65)が1993年、東京大倉ホテルの庭園で、その遺構を見つけ出した。長い交渉の末、大倉ホテルは、三星(サムスン)文化財団に寄贈する形で、1995年、遺構の石、288個を返還した。しかし、残念なことに1999年、資善堂を復元する当時、取り戻した遺構は、建築資材として使われなかった火災や放置のため、あまりにも激しく傷んだためだ。結局、景福宮北側の隅の乾清宮(コンチョングン)の傍に、さびしげに置かれていた

最近、これを元の場所に戻すことを巡り、議論が活発化している。取り戻しの立役者である金教授は、「東宮のように、建築物の遺構を取り戻した事例は、世界でも稀だ」とし、「復元された資善堂の周辺の移し、景福宮を訪れる国内外の間観客が、忘れられた歴史を学ぶ教育現場として作るべきだ」と主張した。

文化財庁も積極的に賛成している。朴英根(バク・ヨングン)文化財活用局長は、「資善堂は象徴性が高いだけに、基本的な復元の方向性には同意する」とし、「手続き上の問題が残っているが、前向きに検討する」と話した。残った課題は費用問題だ。専門家らによると、遺構の移転には1億ウォン弱かかるとみられる。しかし、文化財庁としては調達が容易ではない。文化財界の関係者は、「資善堂遺構の取り戻しに相当お金を出した三星文化財団が、再び乗り出せば、形の上でよいではないか」という意見を示した。


『資善堂』は払い下げ[有償]で、『石塔』は下付(下げ渡し)[無償]という違いはありますが、大倉喜八郎からすれば政府機関である朝鮮総督府との正規の手続きを経て日本に持ってきたものですね

大倉文化財団も以前譲渡したものの扱いを見て、「これなら我々が持っていた方が後世に残る」と思ったかもしれませんね。


どうあれ、日本では『SAMSUNG』のロゴを消してまでギャラクシー(Galaxy)を売ろうとしているサムスンが表立って直接出てくることはないんじゃないですかね。