(産経新聞 2020/06/05)

 昭和52年11月に北朝鮮に拉致された横田めぐみさん(55)=拉致当時(13)=の父で、拉致被害者家族会の前代表、横田滋(よこた・しげる)さんが5日午後、老衰のため川崎市内の病院で死去した。87歳。

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▲横田めぐみさんが拉致前日にプレゼントしてくれた櫛を手に思いを語る父の滋さん(右)=平成28年11月、川崎市内

 平成9年2月、めぐみさんが北朝鮮に拉致された疑いが産経新聞などで報じられ、国会でも取り上げられると翌3月、日本各地の被害者家族とともに家族会を結成し代表に就任。妻の早紀江さん(84)と全国1300カ所以上で講演し被害者奪還を訴える署名活動などにも尽力、救出運動の象徴的存在になった。

 19年9月に胆嚢(たんのう)の摘出手術を受け、体調不良や高齢による体力面の不安から同11月に家族会代表を退任。その後も、早紀江さんらとともに救出活動に積極的に取り組んでいたが、自身のけがや、体調不良から講演などは減少していた。30年4月にはパーキンソン症候群のため入院し、リハビリに取り組んでいた。

 徳島県で生まれ、北海道で育った。昭和39年10月、早紀江さんとの間に長女のめぐみさんが誕生した。新潟支店に赴任していた52年11月15日、中学1年だっためぐみさんが帰宅途中に失踪。約20年後の平成9年1月、亡命した北朝鮮工作員の証言などから、北朝鮮による拉致が確実視されるようになった。

 北朝鮮は14年9月の日朝首脳会談でめぐみさんの安否について「死亡」と説明したが提供資料などには嘘や矛盾が数多く発覚。16年に「遺骨」として提供してきた骨も、DNA型鑑定で別人のものと判明し、日本政府は北朝鮮に被害者の帰国を求め続けている。


(産経新聞 2020/06/05)

 「会いたい」「がんばる」-。5日に87歳で亡くなった横田滋さんは、最期まで、家族の励ましに応えたという。平成30年4月に体調不良で入院し、晩年は意識がはっきりしない時期もあったが、娘のめぐみさん(55)=拉致当時(13)=と元気な姿で再会しようと命の炎を燃やし続けた。

 滋さんにとって、救出運動は身を削られるような決断と忍耐の連続だった。9年1月、めぐみさん拉致の事実が判明すると、家族が「危険だ」と躊躇(ちゅうちょ)する中でただ一人、実名の報道に応じる決断をした。「実名を出さないと意味がない」。匿名では信憑(しんぴょう)性が薄く、世論に伝わらないと考えたからだった。

 同年3月に結成された被害者の家族会では代表に就任。妻の早紀江さん(84)ら家族と全国を回り、救出を訴えた。拉致自体を信じてもらえない時期もあり、署名用紙をのせたボードを通行人にたたき落されたこともあった。

 だが、めぐみさん拉致事件が社会に浸透し始めると、署名は1年で100万筆を超えた。滋さんの娘への深い愛情と、ひたむきな姿は救出運動の象徴となり、拉致解決を求める声を全国に広げる大きな契機になった。

 19年11月、血液の難病や体力の衰えなどを理由に代表を退いた後も、スポークスマン的存在として全国の集会や講演に出席。講演回数は1300回を超えた。

 体調を心配した周囲が控えるよう言っても、依頼を断ることはなかった。「拉致事件を解決に導く最大の原動力は世論だ」と信じていたが、晩年はパーキンソン症候群のため体が硬直していった。思うように言葉が出なくなり、集会や記者会見などへの出席を見送ることが増えていった。

 体調がすぐれなくてもできる限りの活動を続けた。全国に配信するビデオメッセージを作製。言葉を出やすくするため、リハビリを兼ねた筋力トレーニングと発声練習をしてから、収録にのぞんだ。「もう止める?」。汗ばみ苦しそうな姿を早紀江さんが心配しても「大丈夫」とほほえんだ。

 「めぐみちゃんがすぐ隣まで来ている気がする。早く会いたいです」。入院直前に収録した動画は数十秒ほどのメッセージだが、1時間近く言葉に詰まりながら、懸命に撮り直しを重ねて完成させたものだった。

 30年4月、食事がのどを通らなくなった滋さんは入院。点滴で栄養を補っていたが、十分ではなく、管を通して胃に直接栄養を入れる「胃瘻(いろう)」の処置に踏み切った。口から食べ物や飲み物を取れなくなることに、家族はためらったが、「少しでも元気な姿で再会させたい」と決断した。

 体調は上向いたものの令和2年初めごろから、胃瘻でも栄養がとりにくくなり点滴を再開した。容体は一進一退を繰り返し意識がはっきりしない日もあった。

 生前の滋さんがめぐみさんと同様に気にかけていた存在がある。めぐみさんが北朝鮮で産んだ孫娘、キム・ウンギョンさんだ。平成26年3月、モンゴルで面会を果たし、報告の記者会見では喜びを語った。だが、この面会も、ウンギョンさんの存在が分かってから実現まで10年以上を要した。

 北朝鮮から訪朝を呼び掛ける動きがあったが、めぐみさんの「死亡」を既成事実化される恐れがあり、第三国で面会が実現するまで滋さんは会いたい思いを押し殺した。孫に会うことすらままならない「非日常」もまた、北朝鮮によって生み出されたものだった。

 晩年、病室のベッドで滋さんを励ましたのはめぐみさんの笑顔だった。幼いころの姿。北朝鮮から届いた大人の姿。ベッドの近くに飾られた写真の中の笑顔を見つめ、「会いたい、頑張る」と希望を捨てなかった。その思いが揺らぐことは最期までなかった。


安倍首相には、拉致問題の進展のないまま首相の座を降りるなんてことはしないでほしいですね(4期目もやれということではなく)。