(朝日新聞 2020/04/01)

 上皇さまが天皇に即位して間もない1989年4月、当時の宇野宗佑外相が韓国の崔浩中外相に、韓国内の情勢次第で「天皇陛下の最初の海外訪問として、訪韓を調整したい」と伝えていたと韓国政府が当時の外交文書に記していた。韓国政府が31日、関連の文書を公開した。宇野氏の発言は正式な外相会談の直前になされていたという。

 韓国外務省アジア局長(当時)として崔氏に随行した李在春氏は朝日新聞に、「(発言時の)同席者から後で報告を受け、日本側から(天皇訪韓を)切り出してきたことに驚いた。ただ、事前協議でそういった雰囲気は感じていた」と証言。一方当時の外務省アジア局長だった長谷川和年氏は取材に、「日本側から天皇訪韓を提案した事実は一切ない」と話した。

 今回公開されたのは、89年当時の韓国外交に関する秘密公電など約24万ページ。それらによると、宇野氏は89年4月1日、竹下政権の外相として東京で韓国・盧泰愚政権の崔外相と会談した。宇野氏は会談に先立ち、大臣室にあいさつに訪れた崔氏に、「韓国側で、訪問を受け入れる雰囲気が成熟したと判断できたならば」との条件を示し、「天皇陛下の最初の海外訪問として、訪韓を実現する方向で調整したい」と伝えた。「(韓国国内が)微妙な状況であることもよく分かっており、隠密に返答を聞きたい」とも求めたとされる。

 当時は約2カ月後に盧氏の訪日が予定されていた今回の文書によると、宇野氏は崔氏に対し、盧氏が天皇陛下を韓国に招請すれば、日本側でその内容を発表したいとの意向を伝達。宇野氏は崔氏から「訪日時に新天皇から過去の歴史についてもう少し、はっきりと明快な言明があることを期待したい」と求められ、「外相として十分に検討したい」と応じたとされる

 盧氏は87年の韓国民主化後に就任した初の大統領として、日本との歴史問題で成果を求めていた。ただ、89年5月の訪日はリクルート事件による日本の政局混迷で延期され、海部政権の翌90年5月になって実現した。盧氏はこの際に会見した天皇陛下から「痛惜の念」との表現でおわびの気持ちを伝えられ、天皇陛下を韓国に招請している。その後、日韓では慰安婦や竹島が政治問題化。天皇陛下が退位し、上皇となった後も訪韓は実現していない。(鈴木拓也=ソウル、大部俊哉)

■天皇と韓国をめぐる主な動き

1986年 皇太子さま(現・上皇さま)の訪韓計画が見送りに
1987年12月 韓国で盧泰愚氏が大統領に当選
1988年9~10月 ソウル五輪11月 盧氏の訪日が昭和天皇の病状悪化で延期に
1989年1月7日 昭和天皇が逝去
   4月1日 東京で日韓外相会談。宇野宗佑外相が天皇訪韓に言及
   5月下旬 盧氏の訪日が日本の政局混迷で延期される
   8月4日 天皇として初の公式会見。訪中、訪韓に前向き姿勢を示す
1990年5月24~26日 盧氏が訪日。「痛惜の念」とおわびの気持ちを伝えた天皇に対し、訪韓を招請
1998年10月 金大中大統領訪日。天皇が過去の歴史に「深い悲しみ」
2001年12月 天皇が誕生日会見で「韓国とのゆかりを感じています」と発言
2019年4月30日 天皇を退位


(朝日新聞 2020/04/01)

 平成のはじめ、上皇さまが天皇陛下に即位して初の海外訪問先として、アジア諸国が検討されていた。韓国政府が31日に公開した外交文書からは、日本政府が韓国を有力候補と考えていたことがみてとれる。新時代にふさわしい近隣諸国との関係を築こうとした当時の日本外交の姿が浮かぶ。

 平成の幕開けから2カ月余り後の1989年3月21日、外務省の谷野作太郎アジア局審議官が韓国外務省(当時)を訪ね、李在春アジア局長と向き合った。11日後には日韓外相会談、5月下旬には盧泰愚(ノテウ)大統領の訪日が予定されていた。

 今回公開された文書によると、2人は次のようなやりとりをしたとされる。

 谷野氏「4月に訪日する中国の李鵬(リーポン)首相から、天皇陛下の招請が予想される。日本としては受け入れるが、(訪中の)時期には言及しないつもりだ。韓国側の意向はどうか」。

 李氏「招請は検討するが、過去の問題でトゲが潜んでいる。(訪日する)大統領と天皇でどんな話が出るかという問題がある」。

 会話から浮かぶのは、天皇訪韓に関する韓国側の考えを探ろうとする日本側と、大統領との会見で天皇陛下が日韓の歴史にどう言及するかを注視する韓国側の姿だ。文書には、天皇陛下の初訪問国についての関心が高まるなか、同年4月1日に当時の宇野宗佑外相が、訪日した韓国の崔浩中外相に正式な外相会談とは別の場で、「訪韓を調整したい」と伝えたと記されている。

 李氏は当時、崔氏の随行で訪日しており、3月29日に朝日新聞の取材に応じ、日韓外交当局間のやりとりについて「(天皇訪韓を)韓国側から切り出すことは難しかった。ただ、はっきり言葉にはしないが、日本側とは心で通じ合っていた」と振り返った。韓国国内ではこのころも昭和天皇の戦争責任を問う声が根強く、天皇の招請には世論の反発が予想されていた。

 それだけに、李氏は宇野氏の発言に関して、「驚いた。発言の詳細は(回覧される)外交公電にも残さず、メモとして大統領に渡した。絶対に漏れてはいけなかった」と振り返った。

 今回の文書によると、89年5月の大統領訪日が延期された後、同年6月13日に東京で日韓の外務次官が向き合った。日本の村田良平外務事務次官は「日本には大統領の訪日、天皇陛下の訪韓のどちらが先という優先はない」と言及。「可能なら来年(90年)の春、4~5月に天皇陛下の訪韓を希望する」と踏み込んだ。一方、韓国の申東元外務次官は日本側の過去の歴史認識で「国民が納得できるだけの成果が必要」と、天皇訪韓の前提条件を強調したとされる。

 李氏は朝日新聞に「当時は韓日に、新時代にふさわしい象徴的な交流と協力が必要との考えがあった。天皇訪韓が実現していれば、その後の韓日関係は違ったかもしれない」と話した。

 西野純也・慶応大教授(韓国政治)は「日本側ではこの時期の文書はまだ公開されていないし、おそらく(当時の関係者から)話も出ていないのではないか」と指摘。「日本側にかなり踏み込んだ発言があり、天皇訪韓を希望したことがはっきり書かれている。大変興味深い内容だ」と語る。(ソウル=鈴木拓也)

■関係改善へ上皇さまの思い

 上皇さまは折に触れて韓国について言及してきた。

 即位後の98年。金大中(キムデジュン)大統領(当時)を国賓として迎えた宮中晩餐(ばんさん)会で、両国間の歴史を「一時期、我が国が朝鮮半島の人々に大きな苦しみをもたらした時代がありました」と振り返り、「深い悲しみ」と表現した。

 日韓ワールドカップを翌年に控えた01年の誕生日会見では「桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると続日本紀に記されていることに、韓国とのゆかりを感じています」と発言。韓国で好意的に受けとめられ、03年に来日した盧武鉉(ノムヒョン)大統領(当時)は上皇さまとの会見で「私は大変感銘を受け、韓国の多くの人々もそう思っている」と明かした。

 韓国の大統領が上皇ご夫妻の訪韓を招請したこともある。上皇さまの皇太子時代には公に、韓国訪問が検討された。

 86年3月、日韓両政府が昭和天皇の名代として皇太子ご夫妻だった上皇さまと美智子さまの訪韓を「推進する方向で検討」と発表。両国内で訪問の是非をめぐって議論が起こり、同年8月、両国政府は「日程上の都合」として延期を発表。結局、実現はしなかった。

 今の天皇陛下も韓国政府から招待を受けたことがある。15年4月に大邱市で水の国際会議「第7回世界水フォーラム」が開かれた際、当時皇太子だった陛下が韓国政府から招待を受け、訪韓が注目された。だが、日本の外務省は3月、「日程上の都合」で出席しないと発表。陛下はビデオメッセージを送り、会場で上映された。(中田絢子)

■崔喜植・国民大教授(日韓関係)の話

 韓国政府が公開した外交文書は、平成の始めに日本政府が、天皇の最初の海外訪問先として韓国を真剣に考えていたことが分かる内容で、大変興味深い。韓日関係の研究に寄与する貴重な文書だ。

 1989年はベルリンの壁が崩壊し、米ソ首脳が冷戦の終結を宣言した年だ。ポスト冷戦時代に向けて、天皇の訪韓を実現させ、韓日関係を新たな次元に発展させたいという当時の自民党ハト派政権の思いがはっきり見える。

 韓国は87年に民主化、88年にソウル五輪を成功させた。日本は、韓国とは民主主義と自由市場経済という基本的な価値観を共有する真のパートナーになれると見込み、戦後処理の問題に本気で取り組もうとしたのではないか

 90年5月に訪日した盧泰愚大統領は、天皇が語った「痛惜の念」を評価し、訪韓を招請した。ただ、直接の謝罪の言葉ではないので、天皇が訪韓すれば韓国国内の反発が予想された。盧政権も実現の可能性は低いとみていたと思う。それでも招請したのは、歴史問題で日本側の積極的な対応を期待できると思ったからではないか。(聞き手・鈴木拓也)

■西野純也・慶応大教授(東アジア国際政治)の話

 日本側が具体的に時期を挙げて天皇の訪韓を希望したと読み取ることができ、興味深い内容だ。かなり踏み込んだ発言といえ、日本側の積極的な様子がうかがえる。日韓にとって大きな機会だったことは間違いない。日本側ではこの時期の文書はまだ公開されておらず、おそらくこの話は当時の村田良平外務事務次官をはじめ、これまで誰も表に出していない。

 1980年代後半~90年代初めごろは、サハリン残留韓国人などの問題はあったが、それなりにうまく処理されており、日韓関係が非常に良好だった。韓国は87年に民主化し、竹下登首相が盧泰愚大統領の就任式に参加したほか、88年のソウル五輪にも出席するなど、韓国を好意的にとらえていたことがわかる。

 そうした背景から、戦後処理を含めて日韓関係を新しい段階に進めたいと考えたのだろう。そして、民主化という時代の変わり目のタイミングを好機とし、「いま天皇が韓国に行くのがふさわしいのではないか。そして両国関係が良好な今の状況ならそれが可能なのではないか」という判断があったのだろう

 また、当時の天皇が皇太子だった時代からの流れもあると思われる。86年ごろに当時の皇太子の訪韓が事実上決まっていたが、皇太子妃のご病気で実現されなかった。その流れがずっと生きていたのだと思う。(聞き手・大部俊哉)


結局、天皇としての海外訪問は、

 1991年(平成3)9月26日~10月6日にタイ・マレーシア・インドネシア
 1992年(平成4)10月23日~10月28日に中国
 1993年(平成5)8月6日~8月9日にベルギー(国王の国葬)
         9月3日~9月19日にイタリア・ベルギー・ドイツ・バチカン(立寄り)
 1994年(平成6)6月10日~6月26日にアメリカ
        10月2日~10月14日にフランス・スペイン・ドイツ(立寄り)

と続きます。

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