(時事ジャーナル 韓国語 2019/03/15)

[イ・ウォニョクの“歴史のデジャヴ”] 26話-白丁の逆襲

イ・ウォニョク抗日映像歴史財団理事長

・両国でそれぞれ“賎民身分撤廃”叫んだ朝鮮の『衡平社』と日本の『水平社』

日本最高の金持ちに挙げられる柳井正(70)ユニクロ会長が引退を控えている。彼は田舎の衣料品店を年間売上20兆ウォンを越える世界的な企業にした神話的人物だ。この会社のモットーである「服を変え、常識を変え、世界を変えていく」という彼の成功の秘訣であり経営哲学として知られている。注目すべきことは彼が2人の息子を差し置いて「会社のDNAを持った社員を後継者に選ぶ」と宣言した事実だ。彼の話はカプチル(甲質)論議に特別な努力なしに企業を受け継ぐ国内財閥の誤った風土を思い出させる。柳井会長の“美しい退場“が待たれる理由だ。
※〈我々のDNAを持った社員の中から選ぼうと思っています。〉〈長男と次男には「株主として生きろ」と伝えています。〉(朝日新聞 2018年06月19日)
 〈息子2人は(ファーストリテイリングの)トップ経営者には絶対しない。株式は十分持っているし能力はあると思うので、できたら会長や副会長にしてもらえたらいいなと。能力がなかったらそれもだめだと思っています。〉(読売新聞 2019年02月20日)

※カプチル(甲質):強い立場の人が立場を利用して弱い立場の人に不利益や不快を与える行為。

ここに彼が日本の賎民階層である部落民出身という事実も興味を加える。『部落』は白丁、牛や馬を取り引きする牛馬商、死刑執行者、死体埋葬者などが集団で居住する地域だ。柳井会長の祖父は牛馬商であったし、伯父は部落解放運動家であった。彼の家には部落民が身分撤廃を叫んだ『水平社』活動に参加した人物が多い。柳井会長が年齢に関係なく“平凡な”服で世の中を変えようとしたとすれば、彼の先祖は身分差別がない“平等な”世の中を作ろうとしたわけだ
※部落(広辞苑 第六版)
 ①比較的少数の家を構成要素とする地縁団体。共同体としてまとまりをもった民家の一群。村の一部。
 ②身分的・社会的に強い差別待遇を受けてきた人々が集団的に住む地域。江戸時代に形成され、その住民は1871年(明治4)法制上は身分を解放されたが、社会的差別は現在なお完全には根絶されていない。未解放部落。被差別部落。

〇3・1運動後、朝鮮と日本を揺るがした“捨てられた”彼らの凄絶な叫び

水平社[全国水平社]は1922年に創立されたが、これに影響を受けて朝鮮の白丁も翌年『衡平社』という団体を作った。1894年の甲午改革を通じて身分制が廃止されたが、白丁は相変らず“畜生にも劣る”待遇を受けた。日帝強占期に入っても封建的身分制が続き、戸籍に白丁を意味する『屠漢』と書かれた。これらは公立学校に通うことができなかったし、結婚や就職などで激しい差別に苦しめられた。

日本の明治大学に通ったチャン・ジピル(張志弼)という人物も朝鮮総督府に就職するために書類を作成したが、戸籍に『渡漢』が押されているのを見て就職をあきらめたという。また、慶尚南道晋州市の“裕福な白丁”イ・ハクチャン(李学賛)は息子の学校に寄付金を出して賦役も厭わなかった。それでも、白丁の息子という事実がばれて学校から追い出されるのが常だった。怒りに充ちたこれらは1923年4月、晋州で「秤(衡)のように公平(平)な社会を作ろう」と言いながら『朝鮮衡平社』を結成した。

珍しくも衡平社設立には両班も参加した。その中の晋州の名門の家柄出身であり千石君[収穫時に千石の米を収穫する金持ちという意]の息子カン・サンホ(姜相鎬)(1887~1957)は、国債補償運動に参加し、3・1運動の時に獄中生活までした独立活動家であった。彼は「朝鮮人どうし差別するのは日帝の植民地統治を助ける愚かなことだ」とし、この運動に全財産を注ぎ込んだ。白丁の子供を自分の養子にして学校に入れることもした。当時の状況から見て彼は“両班白丁”という嘲弄を多く受けたはずだ。カン・サンホはいざ自分の子供たちは教育をさせられないほど生活苦に苦しみ息をひきとった。彼の葬儀は全国から集まった白丁が執り行ったが晋州市内から埋葬地まで追慕の行列が絶えなかったという。

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▲晋州衡平社記念塔と独立有功者カン・サンホ
(姜相鎬)。右は衡平社大会ポスター。

3・1運動で触発された改革熱気と白丁集団特有の結束力のおかげで、衡平社は1年で80支会、7,000人余りの全国組織に規模を拡大した。数百年間踏み付けられてきた差別と抑圧を振り払い、白丁の“逆襲”が始まるのかと思われた。ところが、意外にも農民・労働者が立ち上がった。その頃新聞に載った“反衡平”暴力事件だけでも40件を越えた特に1925年、慶尚北道醴泉郡では数百人の作男・荒仕事屋[肉体労働者]たちが衡平社支会を襲撃し、道行く白丁を殴打して多くの死傷者が発生した。いわゆる“乙と乙”の戦争が起こったのである。この事件で身分撤廃運動の限界を身に染みて感じた衡平社指導部は、他の社会団体と手を握って連帯活動を繰り広げることになった

驚くべき事実は、植民地の白丁が宗主国日本の部落民とも共に活動を行ったことだ。これらは玄海灘を行き来して、相互招請および懇談会など人的交流を活発に繰り広げた。1924年に日本水平社が衡平社大会に送った祝電には「精神的奴隷を振り払う旗を高く上げて共に進軍しよう」と書かれている。2つの“不純”団体が次第に密着すると一緒に警察の監視も激しくなった。日帝は水平社の代表に偽装したスパイを衡平社全国大会に出席させ混乱させたりもした。それでも水平社の指導者は“醴泉事態“を糾弾して抗議文を送るなど朝鮮の“同志”との強固な連帯感を継続した

〇「奴隷状態を振り払う旗を持って共に進軍しよう」と叫んだ両国賎民“同志”たち

水平社を創立した阪本[清一郎]、西光[万吉]、駒井[喜作]は奈良県の同じ部落出身だった。3人とも幼い時から聡明で学究熱が格別だったという。阪本は科学者、西光は画家、駒井は弁護士の夢を持ち東京など大都市の学校に進学した。だが、3三人は差別に耐えられず失意に満ちて故郷に戻った。これらは「自身の才能と努力だけでは身分の壁を越えることができない」という現実を自覚し、部落民解放運動に飛び込むようになった。

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▲写真左から3番目が駒井喜作(1897~1945)、続いて阪本清一郎(1892~1987)と西光万吉(1895~1970)。右は水平社ロゴと部落民の姿。

当時日本には『人権改善』を掲げた市民団体が雨後の筍のように生まれた。その中の政府と大阪市の全面的な支援を受ける『大日本平等会』は、日本を代表する『民権団体』として期待を集めていた。『中外日報』には「大日本平等会とは違い、水平社は常に当局の圧迫を受けているため、将来が悲観的だ」という記事が出たりもした。ついに1922年2月、大日本平等会創立大会が開かれた。祝辞が終わる頃、水平社の主役西光が舞台に上がった。彼は本願寺僧侶の祝辞内容を一つ一つ突き詰めながら気迫あふれる演説を行った。雰囲気が絶頂に達すると水平社創立を知らせる“ビラ”1万枚が撒かれた。大会場は部落民の宣伝の場になったわけだ。このことで3月3日に京都で開かれた水平社創立式は期待以上の成功を収め、その後、水平社は代表的な『民権団体』としての席を固めることになった。

しかし、軍国主義が幅を利かせて市民運動が居場所を失うようになると、水平社と衡平社間の交流も疎遠になり、運動の性格もまた変質せざるを得なかった。朝鮮衡平社は次第に民族主義指向を帯びて日帝の弾圧で1935年に解体された。水平社は右翼国粋主義に傾き、戦争中の1942年に活動を中止した。長兄格の阪本は国家主義者に転向し、理論家の西光もまた、天皇制を擁護する『皇国農民同盟』のような極右団体を指揮した。

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▲水平社創立ビラとユニクロ旭日旗デザインと柳井会長

これらと共に水平社を創設して支部役員として活動した柳井傳一はユニクロ会長柳井正の大叔父である。彼の伯父の政雄もまた、部落解放運動を展開し、山口県議員を務めた“右翼”政治家だった。柳井会長は政雄が創業した『小郡商事』で初めて衣類の仕事を学びながら、彼の影響を多く受けたという

さらに、柳井一家の故郷である山口県は、朝鮮侵略を主張した征韓派と日本極右勢力の本拠地だ。伊藤博文と安倍総理もここの出身だ。柳井一家は同じ県出身のA級戦犯容疑者岸信介元総理の家とも緊密なつながりを結んできた

このように柳井会長の“成功神話”の後には日本右翼の影がちらつく。実際、彼の会社は旭日旗がプリントされたティーシャツ、デザイン、広告で何度も非難された。国内メディアでは彼が小泉総理の靖国神社参拝を非難した事実を強調する。しかし、2005年12月27日付『東京新聞』に載った彼の発言を見ると「中国を刺激して日本経済を難しくするな」という意味で述べたものであるということがわかる。当時、ユニクロは中国市場で苦戦を強いられていた。結局、彼の総理非難発言は“商売根性”でした話であり、軍国主義回帰を警告したものではないということだ。
※〈「なぜ靖国神社に行くのか分からない。個人の趣味を外交に使うのはまずいんじゃないか」と憤るのは「ユニクロ」を展開するファーストリテイリングの柳井正会長兼社長(56)。「政治が経済の足を引っ張っている」と小泉純一郎首相を厳しく批判した。〉(東京新聞 2005年12月27日)

ユニクロの韓国内売上は4年連続1兆ウォンを越えたという。このような状況で、韓国国民を刺激する旭日旗騒動はもう繰り返してはならない。柳井会長は100年前、自身の先祖が朝鮮白丁“同志”と共に夢見た共存の歴史を記憶すべきだろう。(機械翻訳 若干修正)


祖父などのことはウィキペディアにも載っているようなことですが、こうした観点からの記事が日本で出ることはないでしょうね。

で、韓国では「もう白丁は過去のものになって”賤民扱い”はない」かというとそうでもなく、

↓の著者は韓国での取材で「韓国にはもう白丁はいない」「日本は遅れてる」という趣旨のことをみんな言うが、「白丁出身者と結婚は?」と聞くと「それはない。当たり前」や「白丁出身者とわかってて結婚するバカはいません」など言われショックを受けてますね。