(プレシアン 韓国語 2018/12/19)

丁酉災乱[慶長の役]当時、倭軍の民間人虐殺で作られた『鼻墓』[耳塚(鼻塚)]に対する懸案を公論化し、日本文化財指定の解除を促すための討論会が開催される。

※国指定史跡「方広寺大仏殿跡及び石塁・石塔」(文化財庁
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イ・ヨンホ議員(全羅北道南原市・任実郡・淳昌郡)は20日午後2時、南原市庁大講堂で『万人義士の追慕および宣揚方案摸索政策討論会』を開催すると明らかにした。

イ・ヨンホ議員と南原市、南原社会奉仕団体協議会が共同主催する今回の討論会では、丁酉災乱(1597)の南原城戦闘[南原城の戦い]における倭軍の民間人虐殺で作られた『鼻墓』関連の懸案を公論化し、日本文化財指定の解除などに向けた国内外の協力策や政府の政策方向などについて深く議論する予定だ。

当時、『豊臣秀吉』は朝鮮人の鼻を切り取って持って来させ、個数により褒賞を与え、これによって犠牲になった人だけで12万6千人に達したと伝えられる。

そのように作られた『鼻墓』は、日本各地で多数発見されており、代表的に京都所在の墓が豊臣秀吉神社[豊国神社]近隣に『耳塚』という名称で日本文化財として指定されている

墓の名称変更を置いて野蛮性縮小を目的としたという分析が多い。

イ・ヨンホ議員は「戦犯が参拝を受ける神社の向い側に、彼によって悔しい思いで死んでいった私たちの先祖の墓がみすぼらしい姿で放置されているのは国家的な恥」とし「鼻墓は慰安婦、独島などと共に重要な歴史歪曲事例として扱われなければならない問題であるにもかかわらず、公論化の場にまともに上がらず、関連研究も十分ではなく、多くの国民にまだなじみが薄いテーマとして残っているのが実情」と討論会の開催趣旨を明らかにした。

今回の討論会では、ヤン・ウニョン円光大名誉教授とコ・ヒョングォン『南原城』著者が主題発表に出て、討論者としてチョン・ヨンホ文化財庁国立羅州文化財研究所学芸研究室長、ヒョン・チャンウ南原社会奉仕団体協議会会長、イ・ヨンイル全羅北道文化遺産課学芸研究官、チェ・キュホ南原市文化芸術課学芸研究家、キム・イルス南原文化大学(元山内中学校校長)が参加する予定だ。(機械翻訳 若干修正)


なぜ指定解除をしたいんでしょうね。

2007年より毎年、耳塚で『慰霊祭』を行っている韓国の団体が以前、こんな↓主張をしていましたが、同じようなことを考えているんですかね。

(中央日報 2009/08/20)

(略)「民族の魂を生かす国民運動本部」は今年5月、東京の文化庁を訪問し、「耳塚」の韓国への移転を打診したこともある。ハン理事長は「壬辰倭乱(文禄の役)の当時、ウルドルモク(鳴梁海峽)での戦闘で戦没した倭(日本)軍が海岸に流れてきた。そのとき、朝鮮(チョソン、1392-1910年)の民は倭軍の遺体を収拾し、珍島(チンド)に埋めた。いまでも珍島におよそ100基の墓地がある。当時、同地域に出廷した倭軍の子孫が最近も訪れ、法事を行う。珍島にある倭軍の墓地と京都の耳塚を交換する案を提案した」と説明した。 

  これに対し、日本の文化庁は「研究するに値する提案だ。しかし耳塚は文化財に指定されている。国会で文化財関連法規を変えない限り、耳塚の移転は難しい」とし、原論的な答弁を出した。(略)

※民族の魂を生かす国民運動本部:ギョレオルサルリギ国民運動本部(겨레얼살리기 국민운동본부)、ギョレオル活動国民運動本部と表記される場合も。2005年6月に設立された韓国文化体育観光部[省に相当]所管の社団法人。


 京都市の耳塚(ウィキペディア)

京都市東山区、豊国神社門前にある史跡で鼻塚とも呼ばれる。豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役1592年~1598年)のうち、慶長の役で戦功の証として討取った朝鮮・明国兵の耳や鼻を削ぎ持ち帰ったものを葬った塚。

古墳状の盛り土をした上に五輪塔が建てられ周囲は石柵で囲まれている。昭和44年(1969年)4月12日、「方広寺石塁および石塔」として国の史跡に指定された。当初は「鼻塚」と呼ばれていた。しかし林羅山がその著書『豊臣秀吉譜』の中で鼻そぎでは野蛮だというので「耳塚」と書いて以降、耳塚という呼称が広まったようである。2万人分の耳と鼻が埋められている。

この塚は慶長2年(1597年)に築造され、同年9月28日に施餓鬼供養が行われた。この施餓鬼供養は秀吉の意向に添って相国寺住持西笑承兌が行った物で、京都五山の僧を集め盛大に行われたようである。(略)

 耳塚とは 朝鮮人からそぎ落とした耳や鼻を供養
(京都新聞 2018/11/07)

 豊臣秀吉が朝鮮半島に出兵した文禄・慶長の役(1592年~1598年)の遺跡(京都市東山区)。塚上に巨大な五輪石塔が立つ。

 戦功のしるしとなる首級のかわりに秀吉の将兵が耳や鼻をそぎ持ち帰り埋めたと「淀川両岸一覧」は記す。鼻塚ともいわれる。秀吉軍は朝鮮人の鼻と耳を切り取り、戦勝の証として塩や酢に漬けて日本に送った。高さ約8メートルの耳塚は、これらの耳や鼻を埋めた跡に秀吉が築いた

 全国統一を遂げた秀吉は中国大陸への侵攻を狙い、朝鮮半島に出兵した。1592年の第1次出兵時の兵力は約20万人の大軍で、4月に釜山、6月には平壌を陥れた。秀吉軍が本格的に朝鮮人の耳や鼻を切り落とす行為を始めたのは1597年からの第2次出兵からという。

 秀吉軍の武将本山安政が残した記録には「秀吉の命令なので男、女、赤子までなで切りにして鼻をそぎ、毎日毎日塩漬けにし…」と記されている。はじめは首を切り落として送っていたが後に耳や鼻になり、樽(たる)で塩や酢漬けにされ、九州・名護屋を経由して秀吉のもとに送られた。

 耳、鼻の数で戦いぶりが評価されるとあって、秀吉軍の諸大名は競って切り落とした。

 秀吉は1597年に塚を築いた。このとき、僧侶約400人を呼んで供養を行った。