(聯合ニュース 韓国語 2018/12/14)

イ・ナギョン(李洛淵)首相は14日、『3・1運動』[1919年3月1日に日本統治時代の朝鮮で起こった日本からの朝鮮独立運動]を『3・1革命』に替えて呼ぶ案について議論を提案した

イ首相は本日午後、政府ソウル庁舎で主宰した3・1運動と臨時政府樹立100周年委員会の全体会議で、「3・1運動の正名、正しい名前を付けることについて、学界でより深い議論が展開されればどうだろうかという考え」と述べた。

彼は「日本は3・1挙事を暴動、騷擾、乱動などと呼んで不穏視したが、大韓民国臨時政府など民族陣営は3・1革命、3・1大革命と呼んだ」とし「制憲国会の憲法条文逐条審議で3・1挙事について、革命、抗争、運動などの名称が議論された後、『3・1運動』に決定した」と説明した。

続いて「外勢に対する抵抗を『革命』と呼ぶのは正しくないという、何人かの議員の主張が受け入れられたのだろう」と付け加えた。

イ首相は「3・1挙事の影響を受け、2か月後に中国で起きた5・4運動[中華民国の北京から全国に広がった抗日・反帝運動]を、中国は『5・4運動』または『5・4革命』と呼び、1894年の農民蜂起も『東学の乱』[朝鮮で起きた農民の内乱。甲午農民戦争]と呼ばれたが、1960年代以降、『東学革命』に変わった」と話した。

イ首相は「3・1運動と大韓民国臨時政府は、大韓民国の出発と憲法が宣言している」とし「その100周年に私たちは、大韓民国の過去100年を総括し、現在に照明を当て、未来100年を設計しなければならない」と強調した。

続いて「歴史の中の3・1精神を今日に覚まして、明日の土台としなければならず、このすべての作業の基礎は、3.1運動にある」とし「3・1運動の歴史をより具体的に研究することと、3・1運動の正しい名前を付けること、2つの提案をしたい」と語った。

彼は「先日の3・1運動関連学術行事で、『1919年3月1日午後5時までデモ隊を鎮圧しなかった理由は何ですか』、『独立万歳というデモ方式を提案したのは誰か』などの非常に意味深く興味深い質問が出た」とし「3・1運動の研究や記念事業もこのように具体的に展開してほしい」とした。

イ首相は、昨年9月の平壌首脳会談で南北首脳が来年の3・1運動100周年記念行事を共同開催することに合意したことと関連し、「先祖が独立万歳を叫んだ1919年には、南と北は別々ではなかった」とし「共同開催が充実して行われるように準備しよう」と呼びかけた。(機械翻訳 若干修正)


(聯合ニュース 韓国語 2018/12/14)

イ・ナギョン(李洛淵)首相が14日、『3・1運動』の『3・1革命』への名称変更議論を提供したことにより、来年の『3・1運動と臨時政府樹立100周年』とあいまって活発な議論が行われる見通しだ。

3・1挙事を『運動』と呼ぶのは、低めて呼ぶことだから『3・1革命』という正しい名前、正名を見つけなければならないという主張は、以前から出ていた。

キム・サムウン元独立記念館長はこの日、聯合ニュースとの通話で「1919年当時、朝鮮の人口は1千750万人だったが、人口の10分の1以上である220万人ほどが独立万歳抗日闘争に参加し、2万3千人の死傷者が発生し、4万6千人程度が投獄された」とし「男女・貧富・宗教・身分・地域に関係なく、さらには妓生(キーセン)と白丁(ペクチョン)たちまで参加した」と述べた。

続いて「世界の革命史で全人口の10分の1以上が参加したのは初めてであり、封建王朝から民主共和制に替わるきっかけとなったこと、朝鮮の女性たちが初めて歴史的な出来事で先頭に立ったという点などを見たとき、当然『革命』と呼ぶべきである」と主張した。

彼は「歴史はすべからく正名を捜す過程である。フランス革命も最初は反乱としたし、1894年の農民蜂起は東学の乱[甲午農民戦争]、4・19[李承晩が下野した事件]は義挙、5・18[光州事件]は事態としている途中、自分の名前を捜した」とし「3・1革命を『運動』と数段階低めて呼ぶことは、先烈たちに対する冒涜だ」と付け加えた。

親日・近現代史の専門家であるチョン・ウンヒョン首相秘書室長は「1919年3月4日、東京朝日新聞が京城特派員発の記事で3・1挙事を『韓人の運動』[たぶん「鮮人の運動」]と報道したのに対し、中国でのメディアは『高麗革命運動』、『朝鮮革命運動』など革命と表記した」と説明した。

続いて「1930年代以来、私たちの民族陣営では、ほとんど『3・1革命』と呼んだ」とし「臨時政府が1941年の3・1万歳22周年記念大会で3・1大革命運動と呼び、1944年に制定した大韓民国臨時憲章でも3・1大革命と明示した」と付け加えた。

制憲議員は憲法の条文を作りながら、最初は『3・1革命』と表現したが、議員らが革命、抗争、運動などの用語を置いて議論し、『運動』で結論した。

1948年7月7日に開かれ制憲国会27回本会議の議事録を見ると、チョ・グクヒョン議員は「革命という文句は不可であると考える。3・1民族運動というのが日本政府の維新政権下で制度を改めるというのは革命ではない。革命は、国内的なことというのが革命」と主張した。

続いて、イ・スンマン(李承晩)議長が「革命というのが正しい文句ではないという言葉に同意する。革命なら、韓国政府を転覆しようというもの」とし、ジョ・ホンヨウン議員は「革命というのは話にならず、(中略)ただ3・1運動...」とそれぞれ発言した後、議決を経て『3・1運動』に決まった

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▲制憲国会第27回国会本会議の議事録

ムン・ジェイン(文在寅)政府は、日帝残滓清算のために『鉄道の日』を京仁線開通(9月18日)から鉄道局創設日(6月28日)に変更し、チョン・ドゥファン(全斗煥)軍事政権が制定した国難克服記章令を廃止し、臨時政府樹立記念日も4月13日から4月11日変えた。

このように“歴史を正す”ことに重きを置いた政府であり、3・1運動100周年を迎える時点であるため、3・1革命に替えて呼ぼうという議論に拍車がかかるものと思われる

ただし、憲法前文の『3・1運動』を『3・1革命』に替えるには、憲法改正が伴わなければならない。(機械翻訳 若干修正)


 三・一運動(ウィキペディア)

三・一運動(さんいちうんどう)は、1919年3月1日に日本統治時代の朝鮮で起こった日本からの朝鮮独立運動。大韓民国では肯定的評価され、3月1日を三一節として祝日に指定している。(略)

規模
3月から5月にかけて集計すると、デモ回数は1542回、延べ参加人数は205万人に上る。(略)

運動の担い手と形態
運動の初期には、その発生は大都市に集中し、担い手は学生や教師といった人々が主導した。しかし運動が広がりを見せ、地方都市や農村に舞台が移るようになると参加する人も多様となり、農民や労働者、商工業者、官僚、両班などが参加するようになった。

運動の形態には、デモ行進、烽火示威、同盟休校、同盟罷業、独立請願、閉店などがあった。独立宣言にあったように当初は平和的な手段によって運動を行っていたが、次第に警察署・村役場・小学校等が襲われ、放火・投石・破壊・暴行・惨殺も多数行われ、暴徒化していった。これに関して、「暴徒化した理由は日本側の弾圧が激しくなったための抵抗である」という意見や、逆に「暴徒を鎮圧するために多少の武力を使うことは、どの国でも行われる当然のことである」とする意見などがある。

被害
襲撃による日本側の被害を挙げると、人的なものは官憲の死者8名、負傷者158名であり、物的なものは駐在所159(警官のもの87、憲兵のもの72)、軍・面事務所77、郵便局15、その他諸々27であったといわれる。

日本の対応
(略)犠牲数には立場によって一定ではないが、当時上海に亡命しており伝聞の情報であると本文中に書かれている朴殷植の『韓国独立運動之血史』によれば、死者7509名、負傷者1万5849名、逮捕された者4万6303名焼かれた家屋715戸、焼かれた教会47、焼かれた学校2に上るという。他方、日本の警察は運動に関しては平和的に対処し、破壊や殺人が発生した場合に武力で鎮圧したもので、韓国側の歴史記述は日本側の鎮圧ぶりを膨張している面があるとの意見もある

こうした中、いくつかの悲劇が発生した。最も有名なのは堤岩里事件である。この事件は4月15日に堤岩里の住民30余名を教会堂に集めて一斉射撃の後放火焼殺され、他にも日本側が放火し15村落317戸が延焼し、39人が亡くなったというのが全貌である。(略)

この他の悲劇としては江西事件、砂川事件、密陽事件、孟山事件、陝川事件、定州事件、南原事件、京畿道狩川及び花樹里の焼き討ち、ソウルの十字架虐殺事件などがある。