泗川市に神風隊員追悼碑..日本女優
(聯合ニュース 韓国語2007/09/27)  

 日本のある女優が慶南,泗川市に朝鮮人神風特攻隊員の追悼碑をたてる。

 27日、泗川市によれば日本の知韓派女優の黒田福美(51)氏が、日帝強制占領期間時に強制徴集されて神風特攻隊員として活動し1945年5月に沖縄海上で亡くなったタク・キョンヒョン(1920年生まれ)氏の追悼碑を彼の故郷の西浦面外鳩里南区村にたてると知らせてきた。

 これに伴い泗川市は最近市を訪問した黒田氏と追悼碑建設場所に対して協議し、黒田氏は来月中に追悼碑をたてる計画と知られた。

 日本の女優が数十年前に亡くなった朝鮮青年の追悼碑をたてることにしたのは、1991年に夢の中で会った朝鮮青年が「飛行機を操縦しながら死ぬことに後悔はないが、朝鮮人が日本人の名前で死ぬことがくやしい」という話を聞いたのが契機になった。

 以後、黒田氏は青年の正体を把握しようとあちこちでうわさをたよりに捜した。

 1995年に読売新聞に夢の内容をコラムで載せた後「彼が神風特攻隊員の光山文博である可能性が高い」という情報提供を受け、写真を見て夢の中の青年という確信を持った

 彼の名前が卓庚鉉(タク・キョンヒョン)という事実も知った。

 京都でタク・キョンヒョンの家系資料と小学校、中学校、京都薬学専門学校の学籍簿まで捜し出した黒田氏は『奇妙な縁』と考え、彼の故郷に碑石をたてることを決心した。

 黒田氏は日本に強制徴集された韓国人らの身元を探すのに努力したホン・ジョンピル(71)前明知大教授を通してタク・キョンヒョン氏の遺族らにも会った。

 追悼碑建設を推進する黒田氏は、西浦面住民たちの「西浦面内で韓国青年250人余りが連行されて行ったのになぜタク・キョンヒョンだけ碑石をたてようとするのか」という反対にぶつかったが粘り強い説得で住民たちの同意も受けた。

 黒田氏は《平和な西浦で生まれて不慣れな地沖縄で生を終えたタク・キョンヒョン..魂だけでも偲んだ故郷の地の山河に戻って平安に眠って下さい》という帰郷祈願碑文まで彫っている

 タク・キョンヒョン氏は日本のノンフィクション《ホタル帰る》と映画《ホタル》のモデルにもなった。






卓庚鉉 たくこうげん(光山文博)

大正9年慶尚南道生まれ
立命館中学、京都薬学専門学校(現京都薬科大学)
大刀洗陸軍飛行学校分教所(知覧) 特別操縦見習士官一期生
昭和20年5月11日第51振武隊 第7次航空総攻撃として沖縄西海方面に陸軍戦闘機 隼にて出撃 戦死 24歳 2階級特進 大尉

 辞世 たらちねの母のみとぞ偲ばるる弥生の空の朝霞かな

 京都薬学専門学校を卒業、陸軍航空隊を志願し、昭和18年10月に特別操縦見習士官一期生として難関を突破しみごと合格した光山文博は大刀洗陸軍飛行学校分教所(知覧)に配属となり、一年間の訓練のちに19年10月に少尉に任官す。

 その一カ月後の11月に軍人になることを反対した母を亡くしています。その母の死に目に駆け付けた光山少尉に対して、「ひと足遅かったなあ。お母さんは、随分待っていたのになあ・・・。お母さんなあ、お前の事を心配していたが、なくなる前には、もう諦めの心境なのか、『文博はもうお国に捧げた体だから、十分に御奉公するようにいって下さい』と言い残したんだよ」「じゃあ、お父さんも、僕が戦死しても嘆きませんね」「日本が勝か負けるか、大変な戦争だよ。お前も十分戦ってくれ」

 光山少尉は基地に戻ってただちに特攻志願の願書を書いて、師団長に提出。三重県明野で編成された陸軍特別攻撃隊第51振武隊に所属。昭和二十年4月、知覧に進出。

 知覧の特攻隊員の多くを見送った鳥浜トメさんの経営する富屋食堂に、出撃前夜最後の別れに一人で訪れてました。他の特攻隊員の歌声に耳を傾けていた卓に、トメさんが「今夜が最後だから光山さんも歌わんね」と勧めると、「そうだね、最後だからね。それでは僕の故郷の歌を歌うから、おかあさん聞いてね」とふだんは無口で恥ずかしがり屋だった光山は、被っていた戦闘帽を眼が隠れるぐらい目深に被って、あぐらをかき、柱にもたれかかってアリランを歌っています。

アリランを歌う光山は次第に涙でくしゃくしゃになって、二番は歌にならずに、いじらしく思ったとめさんは光山少尉の手を取り、トメさんの娘さん二人も手を取り合って泣いたそうです。

光山少尉こと卓庚鉉少尉はこの時トメさんに朝鮮の黄色い縞の布で作った財布を「お世話になりました。こんなもので恥ずかしいですが、受け取ってください」とお渡ししています。トメさんは「出撃記念 光山少尉」と書かれたこの形見となった財布を大切にしていて、それは今も残されています。(豊田穣著の「光山文博大尉の突入」にはこの財布には「贈 鳥山とめ殿 光山文博」と記されていたとなっているが、残されている遺品の財布の写真では「出撃記念 光山少尉」となっている。)

 爆装隼にて昭和20年5月11日午前6時30分 第51振武隊 第7次航空総攻撃として沖縄西海方面に出撃、散華されました。

 「日本陸軍隼大尉」と墓碑名に刻まれた墓で故郷の慶州で御両親といっしょに眠っているそうです。

 戦後、4、5人の在日朝鮮人学生が富屋旅館を訪ねてきたそうで、光山大尉の話しを聞いたその学生たちは、トメさんに「アリラン」を歌ったそうです。トメさんは光山大尉を思い出し涙ぐんだそうです。

 戦争が終わって三カ月目の20年11月、知覧に残っていた特攻機を米軍が山積みにして焼いた。その最後の様子を見ていたトメさんは、焼跡に墓標を建て「これは特攻隊員のお墓だよ」といって毎日花を供え焼香するようになった。これが後に昭和30年に健立される特攻観音のはじまりであった。その特攻観音にトメさんは水桶を持って日参し、平成4年4月、90歳でお亡くなりになっています。(略)(酒たまねぎやURA「朝鮮人と護国の英雄 特別攻撃隊」より)




光山少尉は、二十四歳で戦死し、二階級特進して大尉となり、ご両親と一緒に眠っていますが、光山少尉(大尉)のお父さん(アボジ)は、息子を誇りに思い、その墓碑には、「日本陸軍隼大尉」と刻みました。

  これは、「卓大尉」の誤記ではありません。光山少尉の特攻乗機は、陸軍一式戦闘機、通称「隼」であり、アボジは、息子を称えるために隼大尉と刻まれたのでした
。(民族戦線「光山少尉のこと」より一部抜粋)







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