(毎日新聞 2018/07/15)

 「巣鴨を出た後、韓国に帰国しようとは思わなかったのですか?」。学生の問いに、朝鮮半島出身の元「日本人」BC級戦犯、李鶴来(イハンネ)さん(93)は答えた。「一日でも早く帰りたかったんですよ。でも友人たちに聞くと『対日協力者として風当たりが強い。とても住めない』と言われ、諦めたんです。結局、会えないままに母は亡くなってしまった。親不孝です」

 6月12日。私は知人の大学4年生3人と共に東京都内の李さん宅を訪ねた

 大日本帝国の植民地だった朝鮮出身の李さんは戦争中、日本人軍属として南方で連合国軍捕虜の監視員になった。戦後、捕虜虐待の罪で死刑判決(のちに減刑)。朝鮮人148人が戦犯とされ、23人が処刑された

 別の学生が「23人に対して(日本政府に)謝罪してほしいですか?」と尋ねた。「もちろん」と強く言った。

 「日本人なら日本のためにと思えたかもしれないが、私たちは納得のしょうがない。誰のために、何のために死ななければならないのか。刑死した人たちはどれくらい無念だったか」

 1956年に巣鴨プリズンを仮出所し、身一つで異国の社会に放り出された。戦争は国策だ。人生を大きく狂わされた李さんや同胞たちは帝国の後継である日本政府に謝罪と補償を求めるが、政府は拒んでいる

 学生3人はジャーナリスト志望。第二次世界大戦の戦闘は73年前に終わった。しかし、今も苦しみ闘っている人たちがたくさんいることを知ってほしい、記者になったら報道してほしいと願い、取材に誘った。

 「仲間たちの無念を晴らすまでは死ねない」。命を削るように運動を続ける李さんたちの「終わらない戦争」は、私たちに何を突きつけているのか。取材・文 栗原俊雄


(毎日新聞 2018/07/15)

罪だけ背負わされ
日本人の正義を問う

 元BC級戦犯で在日韓国人の李鶴来(イハンネ)さん(93)の長い闘いは、日本の植民地に生を受けたことから始まった。

 日本統治時代の朝鮮半島南部・全羅南道の山村で、小作農家の長男として生まれた。小学校を出た後、郵便局員などいくつかの職業に就いた。1942年、軍属となるために受験するよう村役場から勧められた。役場ごとにノルマがあり、事実上の強制だった。17歳だった

 その後2カ月間、釜山で厳しい訓練を受けた。「声が小さい、姿勢が悪い」などの理由で上官から殴られた。つらかったが「脱走すれば家族が大変」と思い、耐えた。命令は絶対。「生きて虜囚の辱めを受けず」と、捕虜になることを厳しく戒める「戦陣訓」を暗唱させられた。国際法によって捕虜には人道にかなう待遇が保障されていた。しかし大日本帝国は、そのことを周知しなかった。

 李さんは、タイとビルマ(現ミャンマー)を結ぶ泰緬(たいめん)鉄道で働く捕虜のイギリス兵やオーストラリア兵らの監視員となった。映画「戦場にかける橋」の舞台として知られる鉄道だ。過酷な労働、劣悪な衛生環境や食料事情のせいで、捕虜およそ1万人が死んだとされる。

 「彼らは体が大きくて、最初は怖かった。でも、なめられてはいけない、と思いました。そういう教育を受けましたから」。李さんは言う。相手は捕虜。「戦陣訓」の教えが脳裏にあった。

 日本軍の鉄道隊は毎日、労働に必要な人員を出すよう捕虜監視員に命じる。李さんは捕虜側にそれを通達する。捕虜たちは疲弊しきっており、病人も多い。求められた数の人員を出せない、と言ってくることもあった

 捕虜監視員は、両者の間に立つ難しい立場だった。だが「上官の命令は絶対」で、病気の捕虜を作業にかり出さざるを得ないこともあった。日本軍の末端にいる監視員に意思決定権はなかったが、捕虜たちの憎しみは、日本軍の上層部ではなく、じかに接していた李さんら監視員に向けられた

 ◇   ◇

 45年夏の降伏後、李さんら監視員は逮捕され、シンガポールの刑務所に入った。一度は解放されたが再び拘束され、裁判を受けた。虐待されたとして元捕虜9人が告訴していたが、李さんの弁護士による反対尋問はなかった。判事、検事とも戦勝国のオーストラリア人。「死刑」。47年3月20日、李さんは判決を聞き、ぽうぜんとした。荒れる捕虜たちと接する中で、「ビンタ」したことはあるが、極刑など予想もしていなかったからだ。「手錠をかけられ、その冷たさで我に返りました」

 「捕虜虐待」などの理由で朝鮮人148人が「戦犯」とされ、23人が処刑された。「なぜ日本の戦争のために自分が死ななければならないのか」。納得できなかった。死に値する罪を犯したつもりはない。それなのに、いつ命を奪われるか分からない――。李さんたちがなめた苦しみは想像しがたい。

 47年11月、懲役20年に減刑された。理由の一つに、李さんを告発したオーストラリア軍の元捕虜、ダンロップ軍医が死刑に同意しなかったことがあった。泰緬鉄道の現場で、捕虜を労働に出すかどうかを巡り李さんと激しく対立した相手だ。2人は91年、オーストラリアであった泰緬鉄道に関するセミナーで再会し、和解することになる。

 51年8月、李さんは東京の巣鴨プリズンに移された翌年、サンフランシスコ講和条約が発効し、日本は独立を取り戻した。戦犯の扱いも緩やかになった。外出ができ、収容所の中で自動車の運転免許を取ることもできた。しかし一方で、李さんたちのその後を大きく動かす事態が進んでいた。同条約によって、大日本帝国の「日本人」だった朝鮮や台湾の出身者が、意思を尋ねられることなく、日本国籍を外れたのだ。

 日本政府は52年に戦傷病者戦没者遺族等援護法を施行。翌年には、占領下で連合国軍総司令部(GHQ)に停止させられていた軍人恩給を復活させるなど、元軍人や軍属らへの援護を進めた。しかし、いずれも対象は日本人。李さんたちは「日本人」として大日本帝国の戦争犯罪を背負わされながら、「日本人ではなくなった」から、「日本人」が受けている補償から切り捨てられた

 55年4月、李さんら韓国人元BC級戦犯は「同進会」を結成した。元戦犯や家族らの助け合い、そして日本政府に対する補償請求運動の拠点となる

 ◇   ◇

 56年に巣鴨を仮出所した李さんだが、同胞ともども日本に身寄りはなく、仕事のあてもなかった。同じく出所した仲間2人が生活苦から自殺。「(戦犯となった)厳しい状況の中で、九死に一生を得た友人の自殺は大きな衝撃でした」。日本は復興を果たしつつあったが、「戦犯」の就職は難しかった。「自分たちで職場をつくろう」。李さんたちはタクシー会社を起こそうとしたが、資金がない。その時に200万円を貸してくれたのが、東京都江戸川区の耳鼻咽喉科開業医だった今井知文さんだった。当時、国家公務員6級職(後の上級職)の初任給が8700円。その約230倍もの大金である。しかも無担保だった。

 日本人戦犯を支援していた今井さんは巣鴨で李さんたちの存在を知り「日本人として恥ずかしい」と援助を申し出た。200万円は自宅を抵当に入れて工画した。長女の久仁子さん(78)は、父が真剣な顔で「ひょっとしたらここの家も土地も手放すかもしれない。そのつもりでいなさい」と家族に告げたことを覚えている。「ああ、覚悟しておかなきゃと思いました。父は一生懸命な若者が大好きだった。李さんたちを見て『これは何とかしなければ』と思ったはずです。『李さんはとても頭のいい人だ』とも話していました。『自分にはこういう親友がいてくれるんだ』と、晩年まで尊敬の気持ちを抱いていました」

 李さんは経営者として仲間と共に懸命に働き、返済した。96年に92歳で亡くなるまで、今井さんは「自分の息子のように」(李さん)助力を惜しまなかった。

 同進会は日本政府に補償を求めた。歴代首相に解決の要望書を提出し、国会議員にも働きかけた。ところが、政府は動かない。65年に日韓基本条約が結ばれると「補償問題は解決済み」として李さんらに背を向けた。

 アカデミズムの中で、最も早く動いたのが内海愛子・恵泉女学園大名誉教授(76)だ。70年代末から著作などで、この補償問題を広く伝えた。国会への請願も手伝った。李さんが「何かというと、内海さんに相談しました」と言うほどに信頼が厚い。今も最大の支援者だ

 91年、李さんら元BC級戦犯と遺族の計7人が日本政府に謝罪と計1億3500万円の損害賠償を求め、東京地裁に提訴した。しかし96年9月に敗訴。東京高裁でも敗れ、99年に最高裁で確定した。いずれも救済は立法府の判断とした

 ただ、地裁判決は「わが国の元軍人・軍属、遺族に対する援護措置に相当する措置を講ずることが望ましい」とも指摘している。高裁も「ほぼ同様にあった日本人、さらには台湾住民と比較しても、著しい不利益を受けていることは否定できない」とした。事実、87年と88年には台湾人戦没者遺族らに慰問金を支給する法律が成立。日本政府は計約3万件、592億円を支払った。韓国に対しては日韓基本条約などによって日本なりの補償をしたものの、国交がない台湾には不十分な補償さえできず、立法によって対応せざるを得なかったという事情がある

 高裁判決は同じ戦争被害者の間で、差別があることを認めたのだ。そのうえで「国政関与者において、この問題の早期解決を図るため適切な立法措置を講じることが期待される」と促した。

 差別を認定しつつ、解決は立法にゆだねる。空襲やシベリア抑留被害など、戦後補償訴訟で裁判所が繰り返し述べている「立法裁量」諭だ。その立法がなされないからこそ、被害者たちは命を削って裁判闘争をしている。訴訟中に亡くなる人も多い。そうした事例を取材している私(記者)には、裁判所の裁量論は、踏みにじられた人権の救済という司法の役割を放棄しているとしか思えない

 それでも李さんたちは立ち止まらず、立法による解決を目指した。精力的に動いたのが野党時代の旧民主党議員だ。2008年5月、議員立法を目指し「特定連合国裁判被拘禁者等特別給付金支給法案」を通常国会に提出した。しかし翌年の衆議院解散で廃案に。旧民主党が大勝したが政権は安定せず、法案は成立しなかった

 ◇   ◇

 今回の取材で、私と共に李さんを訪ねたのは早稲田大の三井新さん(24)と栗山愛由さん(22)、中央大の後藤納名美さん(21)だ。李さんたちの苦難に強い衝撃を受けていた。一方、熱心に質問する3人に応じながらも、李さんは集会では見せない晴れやかな笑みを浮かべていた。「ありがたいですよ。戦争が起きてしまったらだめ。起こらないように皆が努力しないと」。若者たちに思いを託す。

 「こんな理不尽がまかり通っていいはずがない」。30年近く前にも、李さんを支援した若者たちがいた。

 予備校講師の田口裕史さん(54)は学生時代、裁判を支援した。「(裁判の見通しは)厳しいと思っていました。でも日本人が一生懸命にやっているのを、李さんら当事者たちに見てもらうのが大事だと思ったんです」と振り返る。

 大山美佐子さん(50)は出版社に入社2年目で活動に参加した(岩波書店労働組合 元?現?委員長)。同僚に誘われて同進会の会合に出かけたのがきっかけだった。「なぜ、この人たちが日本の戦争責任を背負わなければならないのか」と衝撃を受けた。「李さんたちを救い上げられない社会であり続けているのは、がっかりです」。そう言いつつ、李さんを支え続けている。

 「同進会」発足から63年。かつて70人いた会員は3人にまで減った。立法活動ができるのは李さんだけ、しかも近ごろは体調が優れない。6月にインタビューした際、左手の大きな青あざが気になった。「自宅で転んだ」と言う。若い頃は首相官邸前に座り込み、80歳を過ぎても集会に出席し、議員への陳情をこなしてきたが、外出が難しくなっている。

 行政と司法、そして立法。日本の三権は、このままでは李さんたちを切り捨てることになる。裁判所が認定した差別だけを歴史に記録しながら。

 ◇   ◇

 同進会が成立を目指している法案は、旧民主党時代のものを元にしている。朝鮮や台湾出身の元BC級戦犯321人に対し、1人260万円を支給することを柱とする内容だ。申請者は3分の1程度を見込み、予算総額は2億5000万円。巨額ではある。が、日本国の予算1年分90兆円、米製の輸送機オスプレイ1機分100億円に比べればどうだろうか。国策被害に70年以上苦しんでいる人たちへの支給として、高額とは到底言えないはずだ。

 李さんたちは毎年、国会議事堂近くの議員会館で集会を開く。出席する議員らは「今国会で何としても」という趣旨の発言をする。日本と韓国の議員連盟は、問題解決を目指すことを16年に確認した。しかし実現に至っていない。今通常国会の閉会も間近だ。「シベリア抑留や台湾出身戦没者遺族らへの援護などは、議員立法で成立しています。なぜ私たちだけが……」。李さんはそう話す。「同情はいらない。求めているのは日本政府の謝罪と補償、亡くなった仲間たちの名誉回復です。私が言っていることは理不尽でしょうか。日本人の正義と道義心に訴えたい」

 「日本人はいい民族だと思うんですよ。勤勉、真面目で……」。10年近く前に取材を始めた頃、李さんがそう言うのを聞いて、胸を打たれた。大日本帝国の戦争によって人生を狂わされ、敗戦後の今日まで日本政府の不条理に苦しんでいる人物とは思えない内容だったからだ。今井さんや内海さんをはじめとする熱心に支援した人たちが、李さんのそうした日本人観をつくったのだと今は分かる。

 その日本人観を裏切らない結末を、日本社会は李さんたちに見せることができるだろうか。

〈今回のSの取材は〉
栗原俊雄(東京学芸部)
 1996年入社。2003年から現職。論壇、歴史を担当。今年5月20日の本欄「今も闘う空襲の被害者」も執筆した。著書に「戦後補償裁判 民間人たちの終わらない『戦争』」「特攻 戦争と日本人」「シベリア抑留 最後の帰還者」など。

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