(朝鮮日報 韓国語 2018/03/07)
※長めの記事2つなのでかなり無駄に長いです。両記事冒頭の「・」を読んで、あとは流し読みでも

パク・ジョンイン旅行文化専門記者

[113] 壬辰倭乱の東莱城戦闘と釜山窯の秘密 ①

・1592年5月23日未明、1万8千の日本軍対馬出港…2日後に東莱城陥落
・413年が過ぎた2005年5月、釜山の地下鉄工事現場で虐殺遺骨あふれる
・東莱府使ソン・サンヒョン、「退け」という日本将帥の申し出拒否…死後、日本軍が葬儀を行う
・南原と熊川などの地で朝鮮陶工集団拉致…多くは終戦後に帰国拒否
・国交再開直後、日本は釜山に器工場『釜山窯』、「なぜ日本はOEM工場を?」

1913年のある日、日本,対馬第1の都市厳原の競売場に対馬主,宗氏一族の所蔵品が大挙出品された。徳川幕府時代の歴史と文化資料はもちろん、栄華を極めた宗氏門中の財貨があふれ出た。その中に250年前に作られたという茶器が大量に含まれていた

器が入っていた桐箱の中の紙には器匠人(職人)の名前と生産地が記されていた。あらましはこうだった。意三の茶碗、茂山の硯屏、弥平太の茶碗。弥平太の茶碗は製作年度もあった。1691年3月6日。人々は2度驚いた。器が今しがた焼いたようにまっさらだと驚き、すべて名品だと驚いた。

もう一度驚いた。このすべての器の産地が朝鮮釜山であり、それも日本人が朝鮮で運営した工場の製品ということだ。壬辰倭乱(文禄・慶長の役)終戦100年にもならない17世紀、日本が朝鮮で運営したOEM方式の器工場『釜山窯』の話だ

◇戦争の序幕、大浦

大韓民国の釜山で船に乗って南下して1時間で日本の島対馬に着く。比田勝港から北に10分ほど行けば入り江が出てくる。大浦。小さい漁港だ。北に細長い湾が続いて海が見えない。入り江は湖のように見える。入り江に向かう橋の前の交差点には道標がついている。『韓国展望所4.6km』。その下に『大浦』と記されている。展望台に行く途中だが、港に行く韓国人はいない。見る必要がない漁村でもあり、案内板がなくてもである。もしかしたら、通り過ぎろと案内板がないのかも知れない。

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426年前の春の日、日本全域で出港した船が大浦に次から次へ入港した。700隻を越えた。その年の5月23日未明、船は一斉に狭い大浦湾を離れた。1万8000人を越える重武装の日本軍が乗船していた。大将船には日本最高権力者豊臣秀吉の側近、小西行長が、先鋒船には対馬主であり、小西の婿、宗義智が乗っていた。戦争、壬辰倭乱の序幕だった。

◇釜山僉使チョン・バルの死

運命のその日、釜山僉使チョン・バル(鄭撥)は絶影島で狩猟をしていた。絶影島は今の影島だ。狩猟は遊戯でなく民情巡察だ。その日の午後、敵船が海を覆って集まった。チョン・バルは朝貢に来た倭人と考えて備えなかったが、鎮に戻る前に敵はすでに城に這い上がっていた。チョン・バルは乱兵中に戦死した。(宣祖実録1592年陰暦4月13日)後代に再び作成された宣祖修正実録には、チョン・バルが〈雨のように撃ち込まれた砲の中で西門を守っていて、矢が落ちて敵の弾にあたって戦死した〉と修正されている。1000人余りの朝鮮人の抵抗に真っ青になった1万8000余りの日本軍は、生存していた朝鮮人を全員捉えて殺した

◇壮厳で冷酷で拙劣だったその日

日本軍は直ちに南側の東莱城に進撃した。総司令官小西は大阪商人でありキリスト教徒であった。小西は城門の前に木版を掲げた。〈戦うなら戦え、戦わないなら道を仮せ(戦則戦不戦則仮我道)〉。東莱府使ソン・サンヒョン(宋象賢)が答えた。〈死ぬ事は容易でも道を仮すことは難しい(戦死易仮道難)〉。東莱城は軍事要塞ではなかった。城内には近隣地域で招集した民間人が絶対多数であった。ソン・サンヒョンは文を読む文臣であった。

城門が開けられて城内で市街戦が繰り広げられた。城が陥落する頃、日本武将,平成寛がソン・サンヒョンに近付いて襟を引っ張って「逃走せよ」と勧めた。平成寛は戦争前、使節として朝鮮を頻繁に訪れてソン・サンヒョンと懇意な間柄であった。ソン・サンヒョンは拒否した。代わりに官服を着た後、北側に向かって座った。日本軍兵士の一人がソン・サンヒョンを殺した。平成寛と対馬主宗義智、そして宗義智の家臣,平調信(日本名 柳川調信)は嘆きながら、遺体を棺に入れて標木を立てた。(宣祖実録1592年陰暦4月14日)ソン・サンヒョンを殺した兵士も殺してしまった。半日で戦闘は終了した。部隊旗を十字架模様にするほど信仰心が厚かった小西であった。だが、生きている者はやはり虐殺した。壮厳だったが冷酷だった。

拙劣な者も次々現れた。東莱城を守っていた兵士イ・カク(李珏)は城を文臣ソン・サンヒョンに任せて逃走した。慶尚左水使パク・ホンは城を捨てて逃げた。(先祖修正実録1592年4月14日)実録史官はこのように評した。「太平歳月が200年続いて民は戦争を知らず、郡県は噂だけ聞いても驚いて崩れた(民不知兵郡県望風奔潰)」(宣祖実録1592年陰暦4月13日)去る2005年5月、釜山地下鉄寿安駅工事の途中、東莱城戦闘で犠牲になった人々の遺骨が大挙発掘された。満413年ぶりだ。

◇対馬主宗義智

対馬は朝鮮と日本本土の間で生存する空間だ。狭くて不毛な地で領主が住民を統治するには経済が必要だったし、権力が必要だった。朝鮮から経済的な利益を取りながら、本土から権力を認められなければ生存が不可能だった。高麗時代から横行した倭寇は相当数が対馬出身だ。世宗の時代はこの倭寇を制圧するために対馬を攻撃することもした。

権力が生き残るために、対馬主一族である宗氏は朝鮮に出没する倭寇を統制して、平和の代価として持続的、経済的な見返りを要求した。その経済的な見返りが毎年朝鮮から受け取る米であり、これを得るために他の物を載せて釜山に行く船が朝貢船だ。絶影島で狩猟をした時、釜山鎮僉使チョン・バルは軍船の群れをまさにこの朝貢船と誤認したのだ。

豊臣秀吉が日本を統一した。その時、対馬主は宗義智であった。豊臣は宗義智を前面に出して朝鮮征伐の夢を見た。明国を打ち、さらにインドまで打つ夢を見た。そして、小西行長と加藤清正を先鋒にした日本軍、その中で小西の1万8700余りの大軍が対馬の北側大浦湾に総集結したのだ。宗義智が朝鮮侵略の最先鋒に出たのは必然の事であった。

◇チョン・バルの死、イ・スンシンの死

破竹の勢いで北上した日本軍は半月で漢陽まで進撃した。朝鮮の最高権力者宣祖はすでに逃走していた。釜山一帯で繰り広げられた荘厳な美学は跡形もなかった。〈敵2人ほどがいたずらして、漢江を泳いで渡るふりをすると、私たちの将帥は顔色を失って部下をさせて馬に鞍を載せるように命じるので、兵士がすべて崩壊した。京城ががらがらになった。敵が先に十数人の兵士を選んで入城させた後、数十回を探知し、鐘樓にまで至り、軍兵一人もいないということを確認した後に入城したが、足がみなはれて歩みをやっと移す状態だったという〉(宣祖実録1592年陰暦5月3日)“歩みをやっと移す”敵軍に弓一発も撃たないで首都を渡したのだ。

チョン・バルの死で始まった壬辰倭乱は、露梁海戦イ・スンシン(李舜臣)の死で7年後に終わった

◇送還を拒否した陶工たちと釜山窯

朝鮮義兵の大活躍、そして忠実で能力ある軍人イ・スンシンによって国が絶後によみがえった。日本では豊臣秀吉が死んだ。権力を掌握した徳川家康は「私は戦争を起こさなかった」として国交正常化を要求した。その正常化交渉を務めた人がまさに宗義智であった。東莱でソン・サンヒョンのを葬儀を行った平調信は、1600年に捕虜を一部送還しながら使節派遣を要請した。通信使と四溟大師(ユ・ジョン(惟政))が捕虜の送還交渉を務めた。以後、対馬宗氏一族の城である金石城は、朝鮮通信使が日本に第一歩を踏み出すのを出迎える場所になった。そして、1601年、釜山に倭館が設置された。チョン・バルが狩猟をしていたまさにその島、絶影島に倭館が設置された

その後、狭い絶影島に代わって豆毛浦に倭館が設置された。1646年10月、豆毛浦倭館を修理するために対馬から技術者と使節が到着した。首席使節は平成寛。東莱でソン・サンヒョンに逃げろと話したその男だ。(辺例集要)

ところが、奇妙なことが起きた。壬辰倭乱の時に松浦鎮信部隊が南原と鎮海熊川一帯から連行した一部の陶工たちが、朝鮮に帰ることを拒否したのだ。

奇妙なことは他にもあった。豆毛浦に設置された倭館に器工場が設立されたのだ朝鮮が無償で提供する土で、日本が注文したデザインで、日本陶工の監督の下に、朝鮮陶工の手で器を製作し、全量を日本に輸出する、そんな奇妙な工場。名前は後日『釜山窯』とした。<来週②編に続く>(機械翻訳 若干修正)


(朝鮮日報 韓国語 2018/03/14)

パク・ジョンイン旅行文化専門記者

[114] 草梁倭館と陶磁器OEM工場の釜山窯 ②終

・7年で壬辰倭乱終わり、1609年に国交正常化
・倭館に器工場設立…日本の上流層に人気の茶器生産
・デザインと監督は日本人、生産は朝鮮沙器匠
・材料は朝鮮が“無料提供”、製品は全量日本搬出
・79年で工場の門を閉める…朝鮮「無償提供民弊」 日本技術が朝鮮追い越し
・倭館内の神社は加藤清正が祀られている
・“共存の地”倭館でまんまとやられた朝鮮政府

◇壬辰倭乱そして国交正常化

1601年、壬辰倭乱(文禄・慶長の役)が終わって3年後、漢陽の人パク・オンファン(朴彦璜)が日本に捕虜として連れて行かれてから帰ってきた。パク・オンファンは朝廷に出席し、日本従軍僧侶玄蘇から聞いた話をこのように伝えた。

「日本が何度も講和を求めても貴国では毎度中国を言い訳にして講和(国交正常化)しようとしない。もし兵士を出動させて海を渡れば講和しようとしても遅れるだろう。今、中国の兵士の威厳だけ信じて講和せずにいるが、中国の兵士が撤収した後には、たとえ大兵を出さなくても、密かに隙を狙って各地を侵す場合、後悔しても無駄だろう。」

話は続いた。「今、あなた国は東西で朋党が分かれていて相談が一致しない、もし講和をしようとする者があっても、万種に疑って大事が成り立たないことを私は詳しく知っている。」(宣祖実録1601年陰暦8月17日)

過去は忘れて国交を正常化しようという言葉だった。下手に復讐戦を行おうとしては火の海になるだろうという脅迫も隠れていた。その年、朝鮮と日本は交渉に入った。公式的な国交正常化は8年後の1609年に成り立った。己酉約条という。

国交正常化を主導した人は宗義智、19代対馬主であった。日本の新しい権力者徳川家康は、壬辰倭乱の時に先鋒将であった宗義智を前面に出した。壬辰倭乱の初戦が行われた絶影島に簡易宿舎を作り、両国は交渉を行った。莫大な民間被害を受けた朝鮮は、捕虜の送還を通じて労働力確保を望んだ。日本は通商を望んだ。交易を通じて富を創出しようとした。

◇朝鮮沙鉢と日本茶

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▲慶尚南道海岸地域で出た朝鮮沙鉢。日本が井戸茶碗と呼び賛美する沙鉢の原形である。


唐時代に流行した茶法は抹茶であった。口が広い沙鉢に茶粉を入れて混ぜて飲む方法だ。茶葉の製造法が複雑で、労働力がたくさん必要で、明の時代には皇帝の名で禁止した。その時に普遍化した葉茶が現在、韓国人がよく楽しむ茶法だ性理学の世の朝鮮でも抹茶が急減して葉茶が日常化した

日本は少し違った。侍が集まって茶沙鉢を鑑賞して茶を飲む日本式茶法につながった。茶碗の感想が重要な要素であった日本茶法は唐に留学した僧侶が持ってきた。沈潜と瞑想を重視する禅僧だ。これらが主導した茶文化が日本的美学を形成した

侘、「物静かなこと」。寂、「閑静なこと」。この美意識に適合した茶碗が朝鮮茶碗だった。華麗で精巧な唐・宋時代の茶碗の代わりに、どこかうつろな朝鮮茶碗が日本の美学に合った

公式的貿易が禁止された蛮夷倭国だった朝鮮を行き来する日本僧侶は朝鮮沙鉢を風呂敷に入れて玄海灘を渡った。壬辰倭乱前、日本人に開放された三浦、すなわち富山浦と昌原薺浦、蔚山塩浦がその窓口であった

現在、日本国宝と指定された朝鮮茶碗の井戸茶婉は、まさに昌原薺浦、なので熊川で作った器だと推定される(クォン・サンイン慶星大工芸デザイン科教授)。本来の用途は分からない。「雑沙鉢」(雑器)(通度寺栗園長トンムン僧侶)、「祭祀用の器」(沙器匠シン・ハンギュン)、「心血を注いで作った創作品」(沙器匠チェ・ウンテク)。ヒビが入って割れやすく、生活用品ではないことは明らかだ。雑沙鉢であろうが創作品であろうが朝鮮で沙鉢は消えた。日本に残った沙鉢150個余りは、すべて1500年代中盤の一時に生産された製品だ

ところが、日本人たちがこの“わびさびた”器に狂ったのである。壬辰倭乱がこの茶碗ために行われたという話があるほどであった。日本茶道の始祖千利休が豊臣秀吉の茶道の師匠になった。豊臣は「天下の名器を収集し、茶道を大きく起こした」(浅川伯教「釜山窯と対州窯」,1929)。南原と南海岸一帯の沙器匠が大勢日本に拉致されたのもこの茶器のためだった

◇倭館時代と工場設立

だから、対馬主宗義智に国交正常化はお金であり、まさに沙鉢だった。まともな朝鮮沙鉢だけあれば、権力維持と金儲けは取ったも同然だった。正常化交渉の途中である1607年、釜山豆毛浦に倭館が設置された。そして1639年、宗義智の息子、20代対馬主宗義成が茶碗の見本を釜山東莱府に送りながら、窯の設置を要請した。東莱府は中央政府で礼曹の許可を受けて、倭館の外に窯を許可した

◇草梁倭館の設置

豆毛浦倭館は狭かった。両国間の交易量が増え、朝鮮政府は現在の釜山龍頭山公園を中心に新しい倭館を作ることに合意した。30年にわたった交渉が作った結果だ。1678年粛宗4年、なんと10万坪に達する日本人専用新都市が建設された。朝鮮政府が敷地を提供し、朝鮮と日本両国の技術者と建築技法が網羅された。草梁倭館という

倭館内の龍尾山に設置された玉垂神社(今のロッテモールの場所)には新羅を侵攻したという武内宿禰が祀られていた。1819年、この神社には他の神が入ってきた。名前は加藤清正。朝鮮人が悪鬼と呪ったその将帥だ。朝鮮政府は知らなかった。知りながらも知らないふりをしたのか

草梁倭館は、江華島条約が締結された1876年まで対馬によって運営された。条約後、日本外務省に移管された倭館は、日本人専管居留地に変わった。日帝強占期にも日本人が主に暮らした。6・25韓国動乱(朝鮮戦争)の時、避難民が押し寄せて乱開発に陥り、草梁倭館の痕跡はすべて消えた。倭館館長が暮らしていた館守家は、後日、釜山市庁になり、今はモーテルが入った。館守家に上がる階段跡は残っている。主要道路と路地はそのままでも建物跡は見当たらない。

◇釜山窯の設立

抜け目なく運営された器工場が草梁倭館に正式に設立された。1929年、日本学者,浅川伯教はこれを『釜山窯』と命名した。釜山窯があった場所は現在のロイヤルホテル付近のふもとだ。運営方式は(豆毛浦倭館時代と)全く同じだった。朝鮮が材料を無償で提供し、朝鮮技術者を派遣すれば、倭館で年俸を支給して日本のデザインで器を作り、日本に持っていった。おまけに対馬で要求する量の土を与えた

土と朝鮮陶工、沙器匠に対する要求は毎年続いた1644年、窯が倭館内に正式に設置された。橋倉忠助という日本沙器匠が日本側技術者として派遣された。白土80石、薬土10石、黄土50石、朝鮮沙器匠6人が要請によって投入された。技術者は不規則的に続いて派遣された。日本技術者は江戸幕府の要請であることを前面に出して注文書を一緒に持ってきた。1707年、日本から松村弥平太という技術者に送った注文書にはこのように記されている。〈口径9寸、高さ6寸、かかと高さ1寸、釉薬は黄色味を帯びるように。〉

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▲対馬から釜山窯に送った注文書。模様と大きさ、色が詳しく記されている。

『倭人求請謄録』には、対馬から要請して朝鮮が供給した材料明細が記録されている。1696年7月には慶州白土100石、蔚山薬白土100石、金海柿赤土120石、甕器土30石、河東白土40石と昆陽白土40石、晋州白土40石が支給された。このように、1644年から1692年まで無償支給された土の総量は350tだ(クォン・サンイン「倭館窯に関する小考」,2016)。中山意三、阿比留茂山、松村弥平太のような技術者が来て、直接生産もして監督もした。松村は朝鮮技術者との軋轢の末に自殺した。

これらが作った器が1913年、対馬第1の都市厳原の競売場に突然に出品されたのである。どれほど驚いただろうか。朝鮮茶碗で抹茶を飲む“わびさびた粋”、“メイド・イン・朝鮮”のオリジナル茶碗が姿を現すとは。さらにはデザインも日本人の好みに合ったオーダーメード型であったから。

◇OEM工場、門を閉める

釜山窯は1717年を最後に78年で閉鎖された。朝鮮政府としては、これ以上の燃料と土の無償供給を拒否した。「丙子胡乱(清による朝鮮制圧)後、朝鮮に平和の時代が訪れた。民弊を押し切って無償供給する理由がなかった。」(クォン・サンイン)

日本側としては、他の理由がある。これ以上、朝鮮の器を輸入する理由が消えたのだ「朝鮮民窯の品質が非常に落ちた。厚くて重い器になり、茶碗として使うのに難しくなった。」(浅川伯教)

何より朝鮮で器を生産する理由がなかった。日本の磁器製造技術が朝鮮を圧倒してしまったのだ

平和の成就と技術進歩。この2つが釜山窯が門を閉める契機であった。倭館内の神社に誰が祀られているのかを知ろうともせず、無料で渡した技術者と土が何を意味するかも知らなかった朝鮮指導者の無知が作った結末だった。日本には“無料で”習った技術とノウハウ、そして戦争の時に連れて行った朝鮮の技術力が作った結果であった。

◇21世紀の大韓民国、釜山市光復洞

草梁倭館の痕跡は見つけることはできない。代わりに草梁倭館の釜山窯であえて生産しようとした朝鮮茶沙鉢は今、全国の沙器匠が再現している。美しいということだ。問う。誰がその美学を発見したのか。朝鮮人、大韓国人、その誰も分からなかったその美学を土着化した人は日本人だ。400年前、その器を作った匠人の名前を一つ一つ記録しておいた人々だ。彼らが消費した美学をまるで私たちが見つけたかのように自慢するなら率直ではない

倭館があった釜山市光復洞は韓流を楽しもうとする観光客が賑わっている。400年前の指導層が無関心だったその技術と文化と美学が奇跡的に世間を招いている。文化の主人は所有した者ではない。楽しんでこそ主人だ。(機械翻訳 若干修正)


要は、文禄・慶長の役後も朝鮮には陶工もいて、材料も施設もあったのに、朝鮮内で美を見出すことはなかったということですね。