(聯合ニュース 韓国語 2017/12/21)

中国当局が民主化要求デモを流血鎮圧した1989年の天安門事件当時の死亡者が1万人余りに達するという証言が出てきた。

香港インターネットメディア『香港01』は、イギリス政府が先月機密解除した天安門事件関連の外交文書を入手し、当時、銃で撃たれて死亡した学生、市民、軍人が1万人を越えたという中国国務院消息筋の伝言を21日、報道した。

この文書ではまた、当時、装甲車圧殺、機関銃掃射などを通じてデモ隊を流血鎮圧した軍部隊は、楊尚昆(ヤン・シャンクン)(1907~1998)当時主席の甥が指揮官を務めていた第27集団軍であったことが明るみになった。

数千ページに達するこの文書は、当時、駐中イギリス大使館のアラン・ドナルド卿(Sir Alan Ewen Donald)がイギリス,ロンドンに電文報告した内容で、中国国務院のある構成員(member)がイギリス側に提供した情報を伝えている。当時、国務院会議の出席者は総理、副総理、国務委員など14人で、この高位層の名前は機密解除された文書で黒く塗られていて分からないようになっていた。

事実(fact)、推測(speculation)、噂(rumour)に分類された情報のうち、この消息筋が伝えた消息はすべて『確実だ』とドナルド卿は付け加えた。

ドナルド卿は天安門事件が発生した翌日である1989年6月5日、この消息筋から鎮圧に出た軍部隊が山西省に駐留していた27集団軍で、これら軍部隊院の60%が低学歴者という伝言を伝え聞いた。

27集団軍は中国軍部内で最も従順的という評判を聞いていた。

指揮官は当時強硬派であった楊尚昆,国家主席兼中央軍事委副主席の甥であり、楊白氷(ヤン・パイピン)中央軍事委総政治部主任の息子であるヤン・チョンファ(Yang Zhenhua)と付け加えた。

文書によれば、デモ鎮圧作戦は3日夕方に始まり、全4段階に分けて進行されたが、前3段階までは瀋陽軍区が引き受け、最後の発砲段階は27集団軍が投入された。

瀋陽軍区運転兵は、当時、北京に行って訓練と撮影に臨む指示を受けてデモ現場に入った。これらは当時、デモ隊で埋め尽くされた天安門広場の西側と東側から進入し、学生と市民を分け、学生たちに1時間以内に広場を離れることを通知した。

だが、結局、3段階の解散任務が失敗すると、現場に投入された27集団軍の装甲車が発砲を始め、現場に散らばっていた瀋陽軍区軍人まで皆射殺した。装甲車は2度にわたってデモ隊を踏み潰して、ブルドーザーで死体を収拾した

デモ隊のうち1千人余りが正義路を通じて現場を離れることを許可されたが、道端に待ち伏せしていた機関銃がこれらに向かって掃射した。装甲車は落伍した瀋陽軍区兵を追いかけ、これらまで圧殺した

この国務院消息筋は、当時、一部の委員は中国に内戦が差し迫ったという考えを持っていたと伝えた。

外交文書はまた、天安門事件で一般市民の死亡が少なくとも1万人に達したという中国国務院内部の評価結果を伝えた。だが、ドナルド卿は6月22日に再び送った電文で、死者数が2千700~3千400人に達し、死体が病院を埋めつくして地下の歩道にも積まれていたと伝えた。

当時の死者数がどれ程に達するかはまだ正確な数値がない。

6月30日当時、陳希同,北京市長は人民代表大会に3千人余りの民間人が負傷し、大学生36人を含む200人余りが死亡したと報告した。

だが、中国赤十字社は死者数が2千600~3千人に達すると見ている。

アメリカ,ホワイトハウスの機密解除文書は、中国内部文書を引用して天安門と長安街で8千726人が殺害され、この他の北京地域で1千728人が殺害されて総死者数が1万454人に達するという調査結果を伝えている。(機械翻訳 若干修正)