(統一日報 2017/10/12)

 1947年2月に誕生した民団東京本部の70年の歴史は、闘争の連続だった。親北団体・朝鮮総連との闘争、日本政府を相手にした同胞の権益擁護闘争などだ。一方で民団は、祖国発展に対する支援の先頭に立ち、また韓日友好親善をけん引してきた。70周年行事が行われた7日、金秀吉団長に話を聞いた。(李民晧)

 ――70年を振り返り、記憶に残っていることは。

「60~70年代は、在日同胞の北送反対運動、民団内部の北韓支持派の問題で、組織的に混乱を経験した。苦境に陥るたびに民団が復活できたのは、支部が力を合わせてくれたおかげだ。会館建設時や88年のソウル五輪の時、募金運動をしたことも記憶に残っている。民団の発展は、生きることに精いっぱいだった時代から、支部の団員が命をかけて組織を守ろうと献身してくれたおかげだ」

――世代交代が失敗しているのでは、との声がある。

「失敗というより、日本の特殊性を考える必要がある。世代交代のカギは、次世代育成と、韓国文化や韓国語を身につけることだ。教育面での力不足を痛感しているが、まだ希望は失っていない」

 ――民団東京の世代別分布はどうなっているか。

「1世は5%未満だ。3、4世が40%前後で、2世(35%)よりも多い。主役は変わっている。80歳以上の中にも2世がいるのが実情だ。これから世代交代はさらに早く進むだろう。新規定住者もかなり多くなった。未来に向けて、民団を発展していく組織にしたいと思う」

――民団内でしか本名を使わないとの指摘もある。

「通名を使うのは、日本での差別を避けるための手段だ。民族のアイデンティティだけを持っていても、日本では住みにくい面がある。民団に来て、自分を忘れずに活動することは、その人がアイデンティティを持っており、それに対する責任感があるからだと思う」

――民団のあり方について。

「祖国を支える海外同胞組織でありながら、日本社会の模範的な市民、いわゆる生活者団体になることの両翼がある。韓国と日本をつなぐ草の根運動をまじめにすることが重要だ。民団は、韓日親善協会の事業を、多くの面で支持している。いいことも悪いことも互いに相談し、在日同胞の力になる道を絶えず模索している」

――東京本部での草の根運動は。

「東京日韓親善協会連合会と、有機的に協力し、保坂三蔵会長も一生懸命民団を助けてくれている。東京本部に所属する21支部が、地域の議員と頻繁に連絡をとり、つながっている。韓日関係が悪い時も、このような方々との絆があるので、関係を柔軟にする力になる。東京では支部レベルで韓国の姉妹都市と交流している。さらに民団の団員たちは、地元の都議会の方や区議会の方とも交流している。これは民団による橋渡しだと考えている」

――本国との交流活動や民団の課題について。

「まだ本国では在日同胞に対する認識不足があり、残念だ。在日同胞は、ドイツの鉱山労働者や看護師に劣らず、祖国の経済近代化に寄与してきた。経済面だけでなく、さまざまな面で数え切れないほどの貢献もしてきた。韓国内で、在日同胞への意識が改善されることを望む。最後に言いたいことは、民団は、次世代育成に加え、同胞の財産と生命を守れる組織でなければならないという点だ」


“差別”から日本名を使用したのではなく、戦後の自称『二等国民』↓の同類とみられ、日本人に“敬遠”されるからという在日も多くいるんじゃないのかな。

【鄭大均著「韓国のイメージ戦後日本人の隣国観」より抜粋】

〈ほとんどすべての朝鮮人の不法行為は、そうした行為を犯罪としてみたとき、普通にもっている意味以上の影響をまきおこした。これは、ある程度は当然、日本の報道機関がそれに必要以上の注意を喚起したことによるものであるが、さらにそれ以上の要素は、小さな事件を派手な訴訟事件にする朝鮮人の性癖であった。朝鮮人を逮捕しようとする際に、違法者とは同じ朝鮮人の血をひいているという以外は、何の関係もない朝鮮人分子がこれに加わって暴徒と化した例は極めて多い。そのうえ、政治問題に関しての朝鮮人同士の闘争にともなう暴力は、日本人の眼に朝鮮人の無法さをより鮮やかに示さずにはおかなかった。/たとえ、このような事件で朝鮮人の犯罪性が拡大されることがなかったとしても、この犯罪性が日本人・朝鮮人の関係に与えた影響は依然として甚大なものがある。朝鮮人の略奪行為が、大部分、下層民の日常生活にとってきわめて重要な地域において行われたということもあった。さらに、朝鮮人は、日本に不法に入国しようとしたが、ときには伝染病をもちこんだという事情もあって、この不安をつよめる実例を提供した。朝鮮人は「悪者」だという心理が、時の流れとともに、日本人の心から薄れていくであろうと信ずべき理由は、なにもないのである[エドワード・ワグナー、一九七五:『日本における朝鮮少数民族一九〇四~一九五〇年』一三〇]

〈しかもその暴力事件たるや、今日わが国の一部破壊的極左分子の採っているいわゆる軍事方針とその軌を一にしているが、むしろ日本人の破壊的共産主義者よりも戦術的には先行する形において武装闘争の手段に訴えており、この実力行使の方法も火炎瓶・催眠ガス弾・爆薬・唐辛子入り目つぶし弾・竹槍・パンク針等を早くより使用しているのである。このような在日朝鮮人の一部極端な破壊分子の動向は、ますます悪質化の方向にあり、そのために大多数の善良穏健な在日朝鮮人の立場を破壊し、日韓両民族の離間を招来してその親善協和に多大の暗影を投ずるものありと考えられる〉[吉橋敏雄、一九五二:「最近のわが国における朝鮮人団体の動向について」、『警察時報』、第七巻第八号二八]

〈〝もう日本人じゃない〟日本降伏の直後、マッカーサー元帥が厚木に乗りこんでくると、まっ先にこう叫び出したのは在日六十万の朝鮮人だった。彼らの多くは戦前出かせぎのため日本に渡ってきたか、あるいは戦時中軍部の徴用で連れてこられたもので、内地における生活がみじめだっただけにこの強気が一度に爆発した。彼らは敗戦国にのりこんできた戦勝の異国人と同じように、混乱につけこんでわが物顔に振舞いはじめた。米でも衣料でも砂糖でも〝モノ〟が不足していた時代に彼らは経済統制など素知らぬ顔でフルに〝モノ〟を動かした。当時絶対に手にはいらなかった純綿のハダ着や雑貨、菓子類、ウィスキー、外国の医薬品など彼らのヤミ市では簡単に買うことができた。ヒロポンや密造酒が集散されたのも主としてそこだった。ゴミゴミしたマーケットから金持が続々と生れていった。完全な無警察状態――。そのいい例が二十四年春、東京深川でおこった枝川町事件である。朝鮮人四人組が月島の織物問屋から純綿八十二反を盗み出して巨利をせしめた。犯人の身もとがわかり、深川署の刑事ふたりが逮捕状をもって……出かけたところ、……逆に〝不審尋問〟され、袋だたきの目にあった。当時の朝鮮人の鼻息がどんなにすさまじかったか、容易に想像できる。〝見まい、聞くまい、振りむくまい〟深川署の刑事たちはそんな言葉で自分たちの無力を嘆じあったという〉[毎日新聞社編、一九五六:『白い手黄色い手』毎日新聞社二九-三〇]

〈終戦当時、国内には強制連行された人を含めて朝鮮人、中国人は二百万以上いたが、とくに兵庫に多く、昭和十八年に十三万五千人、四十七都道府県の七パーセント強を占め、大阪、東京につぐ三位という勢力をもっていた。(中略)/彼らは闇市を掌握して巨大な利益をあげ、徒党を阻んでは瓦礫と焦土の神戸の街を闊歩していた。通りすがりの通行人の目つきが気に入らぬといっては難くせをつけ、無銭飲食をし、白昼の路上で婦女子にいたずらをする。善良な市民は恐怖のドン底に叩き込まれた。/こうした不良分子は旧日本軍の陸海軍の飛行服を好んで身につけていた。袖に腕章をつけ、半長靴をはき、純白の絹のマフラーを首にまきつけ、肩で風を切って街をのし歩いた。/腰には拳銃をさげ、白い包帯を巻きつけた鉄パイプの凶器をひっさげた彼らの略奪、暴行には目にあまるものがあった。/警官が駆けつけても手も足もでない。/「おれたちは先勝国民だ。敗戦国の日本人がなにをいうか」。/警官は小突きまわされ、サーベルはへシ曲げられ、街は暴漢の跳梁に無警察状態だ。/さらにこれにくわえて一部の悪質な米兵の暴行も目にあまった。(中略)/彼らの行為を見聞きするごとにわたしは怒りにふるえていた。/彼らを制止し、阻止する者は一人としていないのだ。/警察は無力化し、やくざは手をこまねいて目をそらす。/いったい、だれが街を自衛すればいいのだ〉[田岡、一九八二:「田岡一雄自伝《電撃編》』(徳間文庫)徳間書店一七四-一七六]

〈平時であれば、内国人と外国人の地位はいずれの国家においても、内国人のそれの方が優遇されていた。(中略)ところが敗戦日本においてはまったくそうでなかった。外国人は、日本の権力の下でその法令に服するのではなく、連合国の権力の下でその管理法令に服することになったのである。そして、最上位に連合国人が存在して次に中立国人や無国籍人が位し、一番下に日本人が位置した。(中略)敗戦直後に朝鮮人が、敗戦で「われわれは二等国民で、日本人は四等国民となった」として連合国人としての地位と待遇を要求したのは、この縦の階層的関係を直覚的に悟ったからにほかならないであろう。そして在日朝鮮人はこの縦の階層的関係の中で可能な限り上に、すなわち連合国人にできるだけ近づくことを期待した。解放前に日本(人)に抑圧され差別されたという思いが深い分だけ、本人とへだたった地位に、つまり連合国人と同様の特権を享受しうべく優遇されることを要求し、容れられない場合は実力で獲得したのだった[加藤晴子、一九八四:「在日朝鮮人の処遇政策過程にみられる若干の問題について――一九四五年~一九五二年」、『日本女子大学文学部紀要』、第三十三号五五]