(韓国日報 韓国語 2017/10/11)

チョン・ジェソン,ソウル市立大名誉教授

集落の名前はその地域の歴史と文化だけでなく、そこの住民の情緒と心象を反映している。

したがって、国家権力が住民の同意なく集落の名前を突然変えればアイデンティティに深刻な危機を招く。私たちは日帝が韓国を支配する過程で韓国人の姓名を日本式に変えたこと(いわゆる創氏改名)はよく知っているが、集落の名前までも日本式に変えたことはあまり知らない。今から2回にわたって日帝がソウルの集落の名前をどのように日本式に変えたかを述べる。この文は韓国が国際表記で、なぜ『日本海』を『東海』と直すことを要求するかを理解するのに助けになるだろう

日帝の地名改変は植民地支配と対になって行われた。ソウルに居住する日本人は日清戦争(1894~95年)、露日戦争(1904~05年)、韓国強制占領(1910年)、中日戦争(1937年)などを契機に大幅に増加した。1885年には89人だった日本人は持続的に増え、1944年には16万人に達した。ソウルの人口で日本人が占める割合は日清戦争時1%、露日戦争時5%、韓国強制占領時19%、中日戦争時28%ほどだった。日帝強占期の韓国全体人口のうち日本人の割合が2~3%であった点を考慮すると、日本人のソウル集中が非常に激しかったということがわかる。日本人は都城の中の南山北側の麓と都城の外の龍山地域に多く居住した。日本人は自分たちが居住する地域に日本式の名前を付けた

朝鮮王朝末期の都城の中には5部・35坊・472洞/里、都城の外には8面・233洞/里があった。洞/里は歴史的に形成された住民の生活根拠地として末端行政区域に付く名称だった。

日帝は1911年4月1日、ソウルの集落の名前を○○洞・○○町(マチまたはチョウと読む)で統一した。この時に確定した洞・町の総数819個のうち日本式の集落名は114個であった(14%)。大方、洞と路は韓国人が、町と通(トオリと読む)は日本人が多数居住する地域だった。日帝強占以前までソウルのすべての集落名は当然韓国式だった。

1914年、日帝はソウルの所轄区域を8分の1程度に縮小した。この時、韓国式の洞名は91個(49%)、日本式の町名は95個(51%)になり、日本式の集落名がより多くなった。1936年、日帝はソウルの所轄区域を4倍程度に拡張した。この時、韓国式の集落名は164個(63%)に増えた反面、日本式の集落名はそのままであり、割合が再び逆転した。ところが、末端行政区域のすべての名称を洞から町に統一したので、ソウルの集落の名前はすべて日本式になったもようだった。

ソウルの日本式の集落の名前は概ね4つの類型に分けることができる。A型は10個程度だが、日本帝国主義の特性を強く反映している。例えば朝鮮総督の名前を取ったハセガワチョウ(長谷川町)などである。A型については次回にもう少し詳しく述べる。B型は50個余りで、日本でありふれている地名から付けた場合である。日本の都市には中心の町という意味を持つホンマチ(本町)という地名が多い。これを模してジン峠一帯にホンマチという名前を付けた。桜の名所で有名な日本奈良県のヨシノヤマ(吉野山)になぞらえ、南山西側麓の桃が満開な集落をヨシノチョウ(吉野町)と呼んだ。C型は10個余りで、韓国式地名を日本人が呼びやすく変容したのである。茶洞をチャヤマチ(茶屋町)に変えたり、銅峴(乙支路一帯)をコガネマチ(黄金町)に直した。D型は40個余りで、地形、樹木、建物、歴史などを参酌して名付けたのである。南山から厚岩洞一帯に広がった3つの丘をなぞらえてミサカドオリ(三坂通)という名前を付けた場合である。

日帝はソウルの集落の名前だけを日本式に変えたのではない。日帝は1929年、国際水路機構(IHO)を通じて『東海』を『日本海』と表記するようにした。日帝は韓国を植民地として支配する状況で、韓国の人名だけでなく地名や海名までも日本式に変えたのだ。解放翌年、ソウル市はいちはやく集落名を韓国式に直した。そして、韓国官民は今、国際表記で『東海』の名前を蘇らせるために努力している。日本はすでに帝国主義を脱して平和国家に変身した。日本が植民地主義の表象である『日本海』表記を自ら放棄するなら国格は世界最高水準に高まるだろう。(機械翻訳 若干修正)