(京郷新聞 韓国語 2017/09/20)

パク・フン(朴薫)ソウル大学教授 東アジア史

日本,北海道の南端の函館に行けば五稜郭という城が残っている。1868年の宮廷クーデターで天皇を奪われて一瞬にして『朝敵(朝廷の逆賊)』になった徳川幕府軍が最後の抵抗をした所だ。京都を脱出した幕府の将軍である徳川慶喜は本拠地である江戸(今の東京)に帰ってきた。西郷隆盛が指揮する天皇軍は江戸の目前まで進軍してきた。一触即発、人口100万人が暮らす江戸の真ん中で血なまぐさい戦闘が繰り広げられるところだった。江戸総攻撃の前日、双方は電撃合意した。将軍は降参して一介の大名(封建領主)になることに。天皇軍は江戸を無血接収した。反発がないことはなかった。幕府の家臣は怏怏不楽、爆発直前だった。この時、幕府海軍総司令官の榎本武揚は反発勢力を艦隊に乗せて江戸湾を脱出し、遠い北海道(当時は蝦夷地、すなわち蛮夷の土地と呼んだ)に向かった。しかし、長くは続かなかった。衆寡不敵、榎本は1869年5月に投降した(ソン・イル「榎本武揚と明治維新」)。

敗将の処刑は当然のこと、ところが反転が起きた。榎本を降参させた天皇軍司令官が救命運動に出たのだ。理由は彼が殺すのは惜しい卓越した人材というもの。榎本は1861年に数人の幕府家臣と共にオランダに留学し、何と5年間、船舶航海術、蒸気機関、化学、国際法などを猛烈に勉強した。当時、海軍と化学に関する限り、日本で彼と争う者はいなかった。結局、投獄はされたが命をつないだ。これで終わりではなかった。その後、榎本は明治政府の要職を務めた。ロシアとサハリン領土紛争の際には特命全権公使に任命されて事案をきちんと片付け、海軍卿に上がり、外務大臣など大臣を4回も歴任した。わずか数年前、政府軍に最後まで抵抗した敵将なのに
※明治20年(1887)5月24日に子爵に。(五爵が制定されたのは明治17年(1884年)。元諸侯(大名)・公卿(殿上人)以外が華族になるのはこの時から。)
 位階は、明治7年に従四位、明治13年に正四位、明治19年に従二位、明治29年に正二位。

読者に馴染みが薄い榎本の話を長く紹介したのは、明治時代の日本を強くさせた力の一つは『国民統合』と考えるためだ榎本だけでなく幕府の遺臣が明治政府で活躍した例は数え切れないくらい多い。事実、幕府は早目に開明政策を行い、攘夷運動の強風が吹く時も初志一貫していたので、西洋に精通した人材を最も多く抱えていた。今、日本の1万円紙幣に肖像画が載っている福沢諭吉は慶応大学を創立して言論界の大物として活躍したし、東京帝国大学総長を歴任した加藤弘之も幕府出身であった。明治政府は権力核心部に彼らを入れはしなかったが、幕府人材を殺すことも、投げ出すこともせず、幅広く登用したその最後を飾ったのは、1898年に明治天皇が前将軍徳川慶喜に会って『朝敵』の汚名を赦免したことだった慶喜は公爵になって貴族院議員を歴任した。もう幕府の首長も天皇の臣下として、それも最も高貴な身分で復権したのだ。
※満25歳に達した公爵・侯爵は全員、貴族院議員となる規定(無給)なので、64歳で叙爵(明治35年(1902)6月3日)した徳川慶喜は自動的に貴族院議員になりましたが議員活動はしてません
 
位階は、明治5年に従四位、明治13年に正二位(将軍時代同)、明治21年に従一位。

これで終わらない。明治政府の急進的な西洋化政策にふつふつとしていた侍が、1877年明治10年に薩摩(今の鹿児島)で大規模な反乱を起こした(西南戦争)。そのリーダーは偶然にも数年前、幕府討伐軍の総指揮者だった西郷隆盛であった。この反乱は多くの犠牲者を出して鎮圧され、西郷は切腹した。こうなれば“反乱の首魁”に違いない。ところが、どうしたことか敗将西郷に対して刃物を使うことはなかった。明治政府もそれに対する批判は避けた。そうしたところ、反乱を起こして20年後(12年後)に明治天皇は彼を赦免して正三位に追贈したまた1人の反乱首魁が赦免復権されたのだ。そして、東京市民が最も好きな上野公園の入口に彼の銅像が立てられた。なぜか太っているおじさんが犬一匹を連れているあの銅像の話だ。
※正三位の追贈は明治22年(1889)2月11日。さらに嫡男・寅太郎が徳川慶喜叙爵の同日に侯爵に。
 寅太郎の位階は、明治35年に従五位、明治42年に従四位、大正8年に従三位(死後)。

「だから当時の日本人はすごかった」、このように言うのは学者の分析では足りないだろう。学界では概ね、その原因として3つ程度を持っている。

まず、天皇の影響力。天皇の権威が急上昇しながら、やり方が違うからそうであったが尊王の一念は皆同じだったと過去を覆ったということ。第二にナショナリズム。対外的緊張を扇動しながら、内部を団結しなければならない状況で相互の対立が緩和されたということ。実際に他国の革命に比べて明治維新の過程で発生した犠牲者の数は圧倒的に少ない。しかし、強烈なナショナリズムは同族間の争いは最小化したが、海外では‘自由に’大規模殺傷を強行した。第三に幕府打破派と幕府間に事実上、路線対立が殆どなかったという点(拙著「明治維新はどのように可能だったか」、民音社)。明治政府の政策はほとんど幕府を継承したものなので幕府出身の協力を必要とした。

その理由が何であれ、明治時代日本が卓越した統合力を誇示したことは明らかだ今、私たちは王朝が交替させられたのでもなく、外に出て行って大規模殺傷を犯すこともない。もう少し統合してもかまわない。私たちには皆が服従して口を閉じる天皇のような存在もいない。心服する対象がろくにいないから皆反抗的だ。しかし、人材はたいてい反抗する人達の中に混じっている。私の話をしっかり聞き入れず抜擢する場合、彼は有能な人事権者ではないのであり、その人は榎本のような人材ではないだろう。(機械翻訳 若干修正)


ノ・ムヒョン大統領を死に追いやった勢力(イ・ミョンバク政権)をつぶす+ノ・ムヒョン大統領の政策(思想)実現を行う態勢を整えているところですから、“反抗する人達”だった“敵将”の抜擢はしないんじゃないかな。