(アジア経済 韓国語 2017/09/08)

ムン・ジェイン(文在寅)大統領は去る6日、ウラジミール・プーチン大統領と首脳会談を終えて剣1本をプレゼントされた。プーチン大統領はムン大統領に剣を渡しながら、この刀を『朝鮮の剣』と話したという。言葉どおり、写真を通じて公開された朝鮮の剣は、少し曲面を持つ線を持った朝鮮伝統の『環刀』の姿だった。

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剣の正確な出処は不明だが、ロシア政府が明らかにした内容では、この剣は19世紀の朝鮮で作られた剣で、1950年代にアメリカ人によってアメリカに搬出され、ロシア人が再びそのアメリカ人から購入したのをロシア政府が確保したという。刀の短い長さから見て、朝鮮後期に儀仗品や装飾用として作られた50cm以下の小さい環刀と推定される。
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▲朝鮮時代の環刀の姿

旧韓末にはすでに我が国でも銃器が普遍化されており、刀の活用度が大きく落ちていたため、主に装飾用に製作された小さな刀がたくさん発見されるが、壬辰倭乱(文禄・慶長の役)、丙子胡乱(清による朝鮮制圧)前後までは実戦用として作られた大きな環刀が多かった。このような朝鮮環刀の主な特徴は、モンゴルや女真族など遊牧民が主に使った大きく曲がった刀である『蛮曲刀』と中国で主に使った直線型の剣の中間の形を持つという点だ。

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▲東莱城から出土した様々な大きさの環刀

朝鮮の剣は昔から曲線が自然で先の刃のみそっと上に上がる、いわゆる『ポソン(韓国足袋)の鼻型』(つま先がツンとした恰好)で有名だった。長くて鋭い日本刀や完全に直線型である中国刀、モンゴルの蛮曲刀とは異なる固有の美学が反映されたものと思われる。大きさ自体は日本刀に比べてそれほど大きくないが、主に両手で使う日本刀とは異なり、盾を一緒に着用していた片手剣だったためだ。ただし使う用途によりとても大きく製作した剣もあったという。

一般的な兵士たちに普及する剣は、歩兵用は約70~80cm、騎兵用は65~70cmの間の長さだったという。朝鮮時代の兵士たちは剣も活用したが、弓が主な武器として活用が多くなったので、弓2本程度と矢筒、鎧と盾を着用した状況で携えなければならない環刀は、とても大きかったり重くてはならなかった。そのため完全武装をしたまま300歩(ぶ)以上を走る兵士たちは職業軍人である『甲士』として採用するほどだったという。

このような環刀の長所は丈夫な剣だったというのがある。朝鮮時代、実戦用の剣としての環刀は、主に軍事的に衝突することが多かった倭寇が使った日本刀に対抗するための武器として製作されたため、切削力が優秀な代わりに細くて折れやすい日本刀に比べて丈夫に製作された。曲面があまりなくて単純な形で何度もたたいて作った環刀にあたれば日本刀は折れたという。また、前近代時代の日本では優秀な鉄鉱石が多い韓半島(朝鮮半島)とは違い、砂が混ざった砂鉄を刀の製作に使ったため、強度の面では朝鮮環刀に比べてかなり脆弱な方だったという

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▲イム・ギョンオプ(林慶業)将軍が使った環刀である秋蓮刀

海外のどの名剣と比較しても劣らない立派な環刀だが、国内現存の遺物は300点余りしかないほど珍しい遺物になった。1907年、日帝によって強行された強制軍隊解散後、各軍営の環刀のほとんどを日本軍が押収して相当数が国権被奪以前に流失したし、以後、日帝強占期に民間に残っていた王室の下賜品や名剣も日本人たちが大挙入手して消えた上、日帝崩壊後にも6.25戦争(朝鮮戦争)など混乱を経ながら国外に搬出された剣は計り知れないくらい多い。今回返還された剣もこのような近代史の痛みを経験した文化財だったものと推定される。(機械翻訳 若干修正)


(アジア経済 韓国語 2017/09/08)

第2次世界大戦当時、太平洋戦線に出場したアメリカ軍に最高の戦利品として人気が高かったのは日本刀であった。日本軍が戦術武器として各兵士に支給した普及用刀剣だけでなく、一部の貴族階層の将校が携えた名剣が取得されると、互いに所持しようと争ったという。

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▲日本刀を大量に押収したアメリカ軍の姿

これは19世紀以降、日本刀が実用目的の武器よりは、東西を問わず一つの高価な芸術品として扱われたためだ。1945年8月、日帝が崩壊して連合国最高司令部(GHQ)が入ると、当時、司令部は日本の貴族や侍一族が保存していた4,000本余りの名剣を押収した。以後、この剣の行方は依然として不明だ。

文化財として価値が低い軍刀はすべて押収して溶鉱炉で溶かした司令部は、日本国内ですべての名剣も押収しようとした。しかし、これは武器でなく一つの文化財や芸術品に近いという日本側の強い抗議に全量押収計画は取り消されたという。日本ではこの時のことを歴史上3番目に発生した『刀狩り』と呼ぶ。

刀狩りとは、日本の歴史で政府が民間の刀を大規模に押収した事件のことをいう。最初の刀狩りは1590年、当時、日本天下を統一した豊臣秀吉が農民反乱を防ぎ、武器を溶かして農機具を作るために行った刀狩りだ。2番目は明治新政府が1868年に発足した後、侍に廃刀令を下したことだ。この廃刀令は以後、1874年から1877年まで続いた侍の反乱の主な動機になった。

だが、刀狩り後も日本国内では名剣の芸術的価値は引き続き認められ、依然として刀を製作する職人が高価な名剣を作っている。日本国内はもちろん、ヨーロッパやアメリカなど西洋の名剣マニアが高い値段を支払って買うこともある。刀剣自体の美しさと共に刃に刻まれた独特の模様により芸術品として愛されるためだ。

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▲基本的な形の日本刀

しかし、実戦武器としての日本刀は、東洋内でそんなに優れたり、独創的な武器として扱われていない。デザイン自体が7世紀の中国唐の主な刀剣だった『唐大刀』をコピーしたものであるためだ。以後、中国と韓国の刀剣は周辺の遊牧民族の侵略、交流とともに影響を受けて変わったが、外部勢力との交戦が殆どなく、文化的にも大きな影響を受けなかった島国日本は、今の時代も様式がそのまま伝えられた。あまりにも古いデザインがそのまま生き残ったため、それ自体で独特のデザインになってしまったのだ

この日本刀は、伝統方式そのままで、依然として代を継いだ職人によって作られている。日本刀に使われる鉄は『日本美術刀剣保存協会』が供給した鉄から作られ、数百万回の焼き入れを通じて刃を整える(?)砂の成分が多く含まる砂鉄を製錬して作ったため鋳造(鍛造?)や焼き入れが容易で日本刀特有の模様である『刃文』(刀身彫り?)を入れるにも良いが、強度は多少弱い方だ。昔の倭乱当時の記録で朝鮮環刀とあたって折れたという記録が多い理由だ。竹のようなものを間違って切ったら刃が欠けたりもして、他の東アジアの刀剣と比較するとかなり脆い方なのでよく壊れる。侍が昔からわけもなく刀を2本ずつ身に着けていたのではないわけだ

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▲特有の模様である刃文が入った日本刀
(記事の内容と写真を見ると、刃文と刀身彫りを勘違いしている?)

そのため、日本刀は実戦用よりは装飾用であり、刀剣収集家の収集品として東アジア全域で人気を呼んだ。12世紀、宋の時代から日本の主な貿易品の一つとして日本刀が中国に導入され、朝鮮にも『倭剣』という名前で輸入されたが、武器として関心を浴びることはなかった。16世紀半ばに起きた三浦倭乱(三浦の乱。1510年、対馬宗氏と朝鮮居留日本人による反乱)までは、朝鮮軍は弓や大砲などで侍をたやすく制圧したため、日本刀の重要性が浮き彫りにされなかったためだった。

しかし、壬辰倭乱(文禄・慶長の役)以降には待遇が大きく変わった。鳥銃(火縄銃)射撃で朝鮮軍の隊形を乱した後、日本刀で進撃した侍部隊に大きく敗れた朝鮮軍は、日本刀を大挙制式武器として採用し、製作法と剣法を学びに使節団として技術者を送ることもした。丙子胡乱以後、清の使節が朝鮮に入ってきていた日本刀を献上品として要求するほどであった

だが、再び18世紀以降からは装飾品や献上品に転落してしまう。すでに主な武器が個人火器である銃器へ移った上、山岳地形が多くて白兵戦よりは遠距離戦術が優先視される韓半島(朝鮮半島)の地形上、長くて重い日本刀は実戦用に向かなかったためである。しかも、砂鉄の割合が高い日本刀特有の低い強度もずっと問題として残った。美しい侍の象徴かも知れませんが、百戦百勝を担保するほどの優秀な武器ではなかったわけだ。(機械翻訳 若干修正)


(アジア経済 韓国語 2017/09/08)

東アジアで名剣の元祖国といえば断然中国である。時代別に様々な遊牧民族の支配が続いた中国は刀剣の種類が非常に多様だ。刀剣技術も今から2500年前である春秋戦国時代に完成させ、当時の刀剣のうちで残っている実存遺物もある。

この実存遺物は普通「臥薪嘗胆」という四字熟語で有名な人物である越王勾践の剣だ。今日では『越王勾践剣』と呼ばれ、中国,湖北省江陵の望山一号楚墓から出土した。青銅剣で2500年余りが経った今も少しもサビが付かず、保存状態は非常に優れている。

刃もそのまま生きていており、今も刃で紙数枚をそのまま切れるほど鋭いという。これによって19世紀以降に登場したクロムメッキが施された剣という噂も広がったが、実際にそのようなメッキは別に発見されなかったという。副葬品に入って酸素遮断が完璧になされ、全く腐食せず、今まで保存されたものと推定される。

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▲越王勾践剣。2500年が経った現在も全くさびずに原型を維持する青銅剣である。実戦用としても使用が可能だという。

この剣は誰が製作したのかは正確ではないが、当時の伝説的な名剣製造家の干将と莫耶夫婦が作ったと推定される。干将と莫耶は、当時最高の刀剣製作者夫婦の名前であり、彼らが作った2本の剣の名前でもある。伝説によれば、干将は天下第一の鉱石を集めて剣を作ろうとしたがまったく鉄が溶けずに悩んでいだが、妻莫耶が自分の爪と髪を入れるとすぐに溶けたという話が残っている。

また別の一説では、干将と莫耶が作った刀剣は鉄も切ったというが、これは通常の鉱物で作ったのではなく隕石で作ったためという説がある。元々は呉に捧げられた名剣として知られたが、以後、越王勾践が呉を滅亡させると干将と莫耶の名剣はすべて勾践の手に入り、彼は死んでこの剣3,000本余りを副葬品として埋めたと伝えられている。このうちの一部を三国志で有名な呉の皇帝、孫権が出土させて使ったという記録もある。

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▲越王勾践の玉剣

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▲中国漢時代の刀剣を復元

中国は漢の時代までは主にこのような形の直線型の刀剣が流行した。春秋戦国時代を経て、数十万に達する長槍兵と遠距離弓手隊の交戦になじんだ戦場だと主に短い距離で刺す刀剣が多く使われたためだ。しかし、4世紀以後、魏晋南北朝時代を経て、中国辺境の異民族が中原を支配して彼らの刀剣文化が流入し、13世紀にはモンゴルの支配を経て、様々な刀剣文化が融合した。

普通、三国志に登場する関羽の名刀である青竜偃月刀や濾胞が使ったという方天画戟などは実際には当時になかった武器だ。馬上用として刀剣と槍が結合した偃月刀が登場するのは10世紀の宋の時代以降であり、多く登場したのはモンゴルの支配以降からだった。三国志演義の著者である羅貫中がモンゴルの支配を受けた14世紀半ばに生きた人物であることを考慮すれば、漢の時代考証よりは当代に使われた武器を記録したと推定することができる。(機械翻訳 若干修正)