(中央日報 韓国語 2017/07/25)

去る23日、日本軍慰安婦被害者であるキム・クンジャ(金君子)おばあさん(91)が亡くなった。京畿道の盆唐車病院の葬礼式場に設けられた殯所(遺体安置所)は故人を賛える人達で混み合った。ところが、おばあさんの殯所には日帝強占領間の痛い痕跡がいっぱいだった。日帝の残滓ならばぞっとする、故キムおばあさんの殯所なので残念さが増す。

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▲弔問客が絶えないキム・クンジャおばあさんの殯所 2017.7.24

私たちが伝統と認識して従う葬儀文化の相当部分は日帝残滓だ。1934年11月10日、朝鮮総督府は「各種儀礼が過度に複雑で煩雑だ」とし『儀礼準則』を発表した

キム・シドク大韓民国歴史博物館学芸研究官(課長)は「冠婚葬祭が私たちの文化で占めるところが大きいため、これを変えて日帝の植民地統治をさらに堅固にしようとする下心があった」と分析した。

儀礼準則は伝統葬儀文化のいたるところに浸透した。麻布の寿衣(死者に着せる着物)が伝統寿衣の代表になってしまった背景にも日帝がある。日帝強占期間以前の寿衣は生前に着ていた服のうち最も高級なもので用意するのが伝統だった。そのため墓移葬過程で発見された朝鮮時代の寿衣を見ると、概ね緋緞や明紬(どちらも絹織物)で作られて華やかだ。

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▲伝統寿衣は素材はすべて蚕の繭の糸で作った緋緞や明紬または木花で作った木綿だった。


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▲朝鮮宣祖の時、全羅道と慶尚兵馬節度使などを務めたイ・ウンヘ将軍の墓を移葬する過程で収拾された寿衣類

親を亡くした子供が『私は罪人』という意で麻布の喪服を着た。パク・ソンシル檀国大名誉教授(衣装学)は「朝鮮の一部極貧層が麻布の寿衣を使った場合もあるが、現在、発掘されたのはない」とし「寿衣は生前に着ていた服なので襟首や袖に垢が付いている場合もある」と話した。

キム学芸研究官は「日帝が満州事変・中日戦争・第2次大戦などの戦争に動員する資源と物資を略奪して朝鮮の経済事情は窮乏した。それと共により求めやすい麻布の寿衣が普及したものと見られる」と話した。

喪服も多くの変化があった。日帝は伝統喪服である屈巾祭服(粗麻で作った服)を省略してトゥルマギ(周莫衣)(韓国外套)と頭巾を着るようにした。遺族が韓服や日本の伝統服装を着た時に左胸に蝶花形の黒いリボンを付けるようにした。また、洋服を着た人は左の腕に黒い腕章を付けるようにした。

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▲パク・テホ葬廟文化改革のための汎国民協議会政策室長は「最近では腕章が軍階級章のように変質した」とし「4列腕章は喪主が、3列は残りの息子が、2列は婿が、1列は孫・兄弟などがそれぞれ付けるのがまるで伝統のように通用している」と話した。

葬礼式場の花も日本を経て入ってきたという。伝統葬儀に使われた花は水波蓮(紙で作った蓮の花)と喪輿に付ける紙の花がすべてであった。特に故キムおばあさんの殯所とともに最近の葬礼式場でよく見られる派手な花装飾は100%日本式というのが専門家たちの見解だ。私たちの伝統は霊座の後に屏風を開くというものだった。遺影の周りに花を立体的に配置し、段を高く積むスタイルは2000年代に日本の流行をそのまま真似たものだ

部の市民団体が普段着を寿衣として使おうというキャンペーンを行うなど、葬儀文化で日帝残滓を清算しようという主張が提起されたが大きな反響はなかった

檀国大学校大学院伝統衣装学科は、朝鮮時代の出土服飾を考証し、新型の伝統寿衣を開発することもした。

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▲檀国大が考証して製作した男性寿衣

日帝強占期を経て伝統が変質した事実さえ知らずに踏襲し続けている現実の改善が切実だ。(機械翻訳 若干修正)


2年前にも似たような書き出しで似たような記事が出ていましたね。

昨年1月26日、日本軍慰安婦被害者であるファン・クムジャおばあさんが亡くなった。梨大木洞病院に設けられた殯所(遺体安置所)は故人を賛える人々で混み合った。ところが、殯所は日帝35年の統治が残した痕跡でいっぱいだった。
2015年04月04日