(ソウル新聞 韓国語 2017/05/31)

ファン・ソンギ論説委員

武藤正敏元クウェート大使が2010年8月に駐韓日本大使として赴任してきた時、韓国と日本の期待は相当であった。韓国では外務省の『コリアスクール』(韓国専門)の初の韓国大使であり、4回の韓国勤務を経た『韓国通』が来たということで韓日疎通に大きな期待を持った。日本も同じであった。当時、民主党の菅直人総理はアメリカ一辺倒の日本外交をアジア重視に切り替え、駐韓・駐中日本大使に破格的な人事を断行した。局長経験はないが韓国通である武藤大使の抜擢を通じて両国の幅を拡大しようとした

韓国語を流暢に駆使する日本大使は初めて大韓民国のどこでも歓迎を受けた。武藤大使は通訳がなくとも誰とでも対話できる身近な存在であった。翌年の2011年3月11日の北東アジア大地震の際に日本を助けた温情に感謝し、韓国を歩き回った彼であった

だが、風が静まる日がないのが韓日関係だ。地震惨事の時、助けて、助けを受けた友情もつかの間、その年の3月末、日本政府が独島領有権記述を強化した中学校教科書の検定結果を発表して、両国関係は急速に冷却し、武藤大使個人にも急傾斜の下り坂が始まった

慰安婦問題が解決されないのは政府の責任であるという2011年8月の憲法裁判所決定で、韓日交渉が再開されながら緊張感も高まった。さらに、2012年6月には武藤大使の唯一の功績になるところだった韓日軍事情報保護協定締結が1時間前に霧散した。支持率が10%台に落ちたイ・ミョンバク(李明博)元大統領が日本の教科書歪曲と遅々として進まない慰安婦交渉を口実に、2012年8月10日、韓国大統領では初めて独島を訪問したことにより、両国は破綻に至る
※2012年8月20日付の各紙で別所浩郎氏を新大使に起用と報道。9月11日閣議決定。野田佳彦内閣。

武藤元大使が6月1日に『韓国人に生まれなくて良かった』という本を出す。3年連続の嫌韓書籍出版だ。嫌韓への豹変には様々な説がある

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東京大法学部中心の外務省の主流でない地方大出身であり、局長経験の無い非主流が、韓国でその実、冷や飯、冷遇にあった自激之心(自責の念)と悲しみが背景にあるという説がその一つだ。

だが、武藤元大使と仕事をした元・現職の外交官の話は少し違う。韓国で華やかに有終の美を飾ると思っていた外交官人生を、2012年の韓日破綻とともに不名誉な大使交代で終わらせた韓国に恨みを抱くようになったというのである。とても軽く親韓から嫌韓に顔を変えたわけだ

外務省の後輩さえ「時間の無駄」と本に見向きもしないという。小倉和夫のようなそうそうたる歴代韓国大使とは違い、武藤元大使が自らの品格を低くする本を書く真意が何か気になる。(機械翻訳 若干修正)

2017年05月29日