文在寅新大統領対日政策ブレーン元日本人を直撃
(週刊文春2017年5月25日号 2017/05/18)

「文在寅(ムンジェイン)氏は、日韓の慰安婦問題の合意について『再交渉する』と公約に掲げていました。その背景には、大統領選期間中、文氏の政策顧問を務めていた〝元日本人〟の存在があります」(在ソウル特派貝)

〝元日本人〟とは韓国・世宗大学教養学部教授の保坂祐二氏(61)だ。

東京都出身の保坂氏は東京大学工学部を卒業後、なぜ日韓併合が行われたのかを調べるため、韓国に移住。九八年から世宗大学の教員を務め、同大学内に設立した「独島総合研究所」の所長でもある。韓国人の妻と結婚し、子供が三人。

〇三年に韓国に帰化した際には「常に日本人が過去の歴史を歪曲することに対し残念な気持ちを抱いてきた」「父から『先祖は千五百年前に韓国から来た』と聞かされた。家に帰ってきた気持ちだ」と韓国メディアに語っている。

前出の特派員が語る。

「保坂氏は独島(竹島)の領有権問題が専門。日本の国会図書館などで竹島が韓国領である論拠となるような古地図などを見つけてきては、それを発表している。天皇制にも批判的で、韓国人にとっては『日本にも良心的な人がいるんだ』と反日感情の溜飲を下げることができるため、メディアに重宝されています」

韓国の討論番組に何度か保坂氏と共に出演している産経新聞ソウル駐在客員論説委員の黒田勝弘氏は、こんな一幕があったと語る。

「ちょうど日本で安保法制が話題になっていた時期です。『なぜ、安倍首相は強硬に安保法制を通すのか』という話題になると、彼は『独島ですよ』という。安保法制では朝鮮半島有事の際、自衛隊が米軍とともに行動することになるわけですが、彼に言わせれば『それを口実に自衛隊を動かし、独島を取り返すのが最終的な目的』とのこと。これにはさすがに、一緒に出演していた他の韓国人からも、『言い過ぎでしょう』という声が出ていました」

韓国人さえ戸惑うほどの〝反日派〟の保坂氏が政策顧問として文陣営に迎え入れられたのは、今年二月のこと。

「韓国の選挙戦では、どれだけ多くの学者を自陣営のリストに載せるかが勝負です。文氏もおよそ千人の研究者や大学教授を陣営に取り込み、保坂氏もその一人。保坂氏は、昨年四月の総選挙の時から文陣営の打診を受けていました。文氏は反日をアピールして支持層を広げようとしたため、保坂氏はブレーンにうってつけの存在でした」(前出・特派員)

その保坂氏は、文大統領が就任した五月十日に、「ニュース23」(TBS系)に出演し、こう語った。

「文大統領の場合は、(慰安婦合意を)破棄するとは一度も言っていません。〝再交渉する〟ということですね」

翌十一日には安倍晋三首相と文大統領の約二十五分間の電話会談が行われた。

「会談では安倍首相がまず、大使館や釜山の領事館前に設置してある少女像の撤去を含む合意の履行を求めたのに対し、文大統領は〝国民の大多数が情緒的に慰安婦合意を受け入れていないのが現実〟と返答し、正面から対立しました」(官邸担当記者)

再交渉は保坂氏の提案だったのか?

保坂氏を電話で直撃した。

「私の関与は、選挙戦の間だけですので、今後はまったく白紙なんですよね。五月十三日付で政策顧問の立場を離れますので。ですから何か言える立場でもなくなるので、インタビューはお断りします」

一方で、保坂氏は「安倍・文の電話会談で、慰安婦問題で鋭いやり取りがありました」と説明。

「安倍首相の発言は、私が慰安婦合意の再交渉の話をしたことを、日本のテレビが幾度も放送したことに対する反発だったと思います。自民党の外交部会も再交渉絶対反対を表明しています。今後は、日本に〝再交渉〟を要求できる正当性が韓国にあるのかということを、まず検討するというところから始めるのが、新政府の立場です。私が良かれと思って話したことが、逆効果になった事例だと思います」(同前)

韓国人記者が語る。

「文新政権にとっては北朝鮮問題が最優先課題。そのため基本的には日本とも友好関係を築いていきたいので、今、慰安婦問題を蒸し返したくない。そんなこともあって保坂氏の役割は終わったのですが、今後も局面によっては、文大統領が保坂氏にアドバイスを求める可能性はあると思います」

果たして保坂氏は〝日本人でよかった〟と思ったことはあるのだろうか。


日本で大学まで出ていながら、この程度↓の歴史知識で日韓史を語っているんですよね。
※織田信長と戦ったのは「石山本願寺」で跡地が「大阪城」。信長死後、豊臣秀吉が京都に建てさせたのが「西本願寺」。秀吉死後、相続でもめていた片割れに徳川家康が建てさせたのが「東本願寺」。


(中央日報 2009/04/22)

  日本史に関心が持つ企業関係者の要求で、私は久しぶりに京都・大阪・奈良を訪れた。 今月第2週の週末を利用して2泊3日間、歴史を説明しながら一緒に回る歴史紀行だった。 大学で日本語と日本文化を専攻したガイドの説明もあり、有意義な楽しい旅となった。 

  一緒に行った人たちは日本への関心が強いため、普通なら30分ほどで回るところを1時間以上かけて一つひとつ丁寧に見ていた。 この地域は日本古代国家の歴史が生きているところで、法隆寺・東大寺・広隆寺などを訪れながら古代韓日交流の歴史を随所で感じることができた。 みんなが驚いたのは、日本の寺院や城の規模が非常に大きいという点だった。 規模が小さい建物は国ではなく個人が建立したものだった。 日本の過去の建築物を見ながら、改めて気づいたことも多かった。 

  仏国寺(プルグクサ)が建立された新羅(シルラ)時代、新羅の華厳宗を日本の国教とした当時の日本の天皇家は、日本華厳宗の本山として東大寺を建立した。 したがって仏国寺と東大寺は‘兄弟’関係となる。 石窟庵(ソクルアム)の大仏と東大寺の大仏も‘兄弟’だ。 私がそう説明すると、東大寺の大仏の大きさに感嘆した同行者の一人が「日本の大仏が兄さんだ」と話した。 それほど東大寺の大仏は重量感を誇っている。 

  この地域の寺院は想像を超えるほど規模が大きいものが多い。 日本の仏教の聖人と呼ばれる親鸞が開始した浄土真宗の本山である西本願寺を訪れたときも、その大きさに圧倒された。 寺というよりは巨大な成のように見える西本願寺。 このように大きな寺院を建立した理由は、織田信長と戦おうとする僧兵の拠点だったからだ。 

  日本の歴史的建築物の大きさは大阪城で絶頂に達した。 現在の大阪城は徳川時代に本来の大きさの3分の1に縮小されたものという。 今でも大きいが、この城がかつてどれほど雄壮だったのかは想像するのも容易でない。 城壁には巨大な岩が多いため、城を築く時に大勢の人々が動員されたことはすぐに察することができる。 

  日本の古代建築物は結局、力の象徴だった。 権力者は自分の力を誇示するために寺や城を大きく築いたのだ。 歴史は常に繰り返されるもので、結局は戦争と対立の歴史だという気がする。 

  私たちは旅行の最後に大阪にある東洋陶磁器美術館に寄った。 観光客はあまり行かないところだというが、私たちにはいろいろと感じることが多かった。 そこには韓半島からいろんな経路で日本に渡っていった青磁・白磁をはじめ、数多くの朝鮮の陶磁器が展示されていた。 在日韓国人が収集して博物館に寄贈したものも多かった。 同行した人たちは「韓国にあればすべてが国宝級宝物だ」と異口同音に話した。 

  2泊3日間、日本の中の韓国を私たちは様々な形で感じることができた。 巨大な建築物の規模に圧倒されながら、それが‘刀の歴史’だったからだという点に気づき、最後に訪れた陶磁器博物館では、小さいけれど民族の魂が込められた陶磁器に会い、誇りを感じながらも過去の悲しい歴史を振り返らざるを得なかった。 そして韓国の陶磁器にとって日本は永遠の外地だということを改めて感じ、切ない気持ちになった。