(韓国日報 韓国語 2017/03/16)

チョン・グウォン建築家

旅行を楽しむ私だけの方法がある。有名な観光地よりは無計画に道を歩いたり、できれば普通の人々が居住する住宅街の路地を散策したりする

古くて平凡でなく見える家が目につけば、あれこれ眺めまわして入ってみる。偶然に宝物を発見する楽しみこそ旅行の本質だ。

先日、東京を訪問した時も、宿舎近くの路地を無計画に歩いた。散歩するには大きな道路を行くよりは、一ブロック後方の小さな道路がもっと興味深いものだ。大小集まった家の安楽な感じに身を任せて歩いて行くと、遠くに長く囲んだ塀が目に映った。塀の向こう側には良く育ったイブキがぎっしりと見えた。公園でなければ寺刹なのかと思った。年配できちんと着こなした人々が自然に道に従って塀の内側に入るのを見たら好奇心が発動した。後に従って歩いた。樹木が茂った進入路をいくらか歩くと西洋式邸宅が登場した。屋根の先だけさっと見えたのにただならぬ建物であることを直感した。エウレカ!

生半可に西洋式を真似た建物ではなく、きちんと様式を生かした家であった。職業病が再発するように心臓の鼓動がはやくなり、視線はあちこちきょろきょろ見回す。家の前に『岩崎邸』という名前が書かれている。文化財の邸宅だった。

内部に入るには靴を脱がなければらないとして靴を入れる袋までくれる。外側と完全に異なった世界にぐっと吸い込まれた。部屋とホール、サンクン(sunken)ガーデン、テラス...木材で美しく飾った内部は華やかで、壁紙、ラジエーター、柱はディテール一つ一つその完成度が驚くべきものだった。家が建てられたのは1896年。120年もなった家がこのようなディテールを持っているなんて!

イギリスの壁紙会社に直接依頼して作られた金箔の壁紙も印象的だった。どれくらい珍しい作業であったのか、作る過程が詳細に説明されていた。その時代に日本にこのような建物を作ることができたなんて、果たして誰が作ったのだろうか?

洋式の建物の隣りに日本の伝統式の屋敷が連結されている。今は茶室として使われる。元々この邸宅は家屋も数棟さらにあったし、今も市民公園を彷彿させる程の庭園だが、当時ははるかに広かったという、東京大が拡張されて敷地が縮小された。それなら最初に建てられた当時の華やかなさは語りつくせないほどであろう。この家の主人である岩崎はいったいどんな人なので、高宗(第26代朝鮮国王/初代大韓帝国皇帝)が作った洋式宮廷建築物よりも華やかな家に住んでいたのであろうか

疑問の答えは建物をすべて見て出る出口で解消された。家門の紋章についての解釈や沿革を説明したところで『三菱』という見慣れた名前を発見したここは三菱創業者の長男であり、第3代会長(総帥)だった『岩崎久弥』の邸宅で、イギリスの建築家『ジョサイア・コンドル』により設計された建物だった。コンドルは、後日、東京大学に統合される工部大造家学科(建築科の前身)教授として務めて多くの日本人弟子を育て、日本建築に大きな影響を与えた人物だった。

三菱と言うと口触りが苦々しい。三菱は以降、日本帝国主義の拡張に大きな貢献をする代表的な『戦犯企業』であり、私たちには強制徴用や日本軍『慰安婦』の話が登場するたびに議論される企業ではないか

この家を見ていると当時、造船業と鉱業で多くの富を蓄積したこの一族の絶頂期が感じられる。建物が美しいだけに、そこに住んだ人も欠陥がないならば、どれほど良いだろうか?

建築的な美しさと感動は、その家に住んだ人々の歴史を知り、ますます複雑になる。華やかさが深くなるほど影も深い。建物に罪を問う訳には行かないが、建物に重なっている話は巨大な質問になって私を押す。やはり建築は単純なコンクリートや石ころではなく、そこに住む人の話が重なる有機体であろうか。このような建物で建築家はどんな責任を感じなければならないだろうか。久しぶりに感じた建築的感動は思わぬ裏切りを受けてしまった。(機械翻訳 若干修正)


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旧岩崎邸庭園は1896年(明治29年)に岩崎彌太郎の長男で三菱第3代社長の久彌の本邸として造てられました。往時は約1万5,000坪の敷地に、20棟もの建物が並んでいました。現在は3分の1の敷地となり、現存するのは 洋館・撞球室・和館の3棟です。木造2階建・地下室付きの洋館は、鹿鳴館の建築家として有名な英国人ジョサイア・コンドルの設計で近代日本住宅を代表する西洋木造建築です。館内の随所に見事 なジャコビアン様式の装飾が施されていて、同時期に多く建てられた西洋建築にはない繊細なデザインが、往事のままの雰囲気を漂わせています。

別棟として建つコンドル設計の撞球室(ビリヤード場)は当時の日本では非常に珍しいスイスの山小屋風の木造建築で、洋館から地下道でつながっていま す。洋館と結合された書院造りの和館は当時の名棟梁大河喜十郎の手によるものと言われています。床の間や襖には、明治を代表する日本画家・橋本雅邦が下絵を描いたと伝えられる障壁画などが残っています。現存する大広間を中心に 巧緻を極めた当時の純和風建築をかいま見ることができます。

大名庭園を一部踏襲する広大な庭は、建築様式と同時に和洋併置式とされ、「芝庭」をもつ近代庭園の初期の形を残しています。

昭和27年(1952)年に国有財産となりました。戦後GHQに接収され、返還後、最高裁判所司法研修所かどとして使用(~1970年)されました。昭和36年(1961年)に洋館と撞球室が重要文化財に指定。昭和44年(1969年)に和館大広間は洋館東脇にある袖塀とともに、平成11年(1999年)に煉瓦塀を含めた敷地全体と実測図がそれぞれ重要文化財に指定されました。