(朝鮮日報 韓国語 2017/02/22)

ニュースQ 高麗に『高麗葬』はなかった

高麗葬』は老いた親を山の中の穴に放置して死んだ後に葬儀を行ったという風習で、現在でも老いて衰弱した親を見慣れぬ場所に遺棄する行為を指す用語として使われたりもする。高麗という名称のために我が国の高麗時代にあった葬儀風習のように認識されているが、こうした風習があったという歴史的資料や考古学的証拠は発見されていない

そして、こうした風習に関連した説話は我が国だけでなく世界の多くの国でも現れる。説話が伝えられる過程であたかもこうした風習が実在したかのように思われるようになり、日帝強占期を経て、高麗葬という名称が固まったと推定されるという意見が支配的だ。

また、高麗葬という名称は、20世紀始めまで老父母を遺棄する葬儀風習よりは、縁故を確認できない“古墳”を指す言葉として一般的に使われ、、高麗塚・高麗山・高麗谷・高麗墳とも言った。大韓毎日新報の1908年11月11日付には〈近日に日本人が高麗葬を掘って沙器を出していく故に完全な古塚がない〉という文が載っている。1916~17年に朝鮮総督府殖産局で調査した『古蹟台帳』にも高麗葬は古墳を指す用語として使われている。

日本が捏造した歴史?

高麗葬という用語が老父母を山に捨てる葬儀風習を示す言葉として使われたのが最初に確認される記録は、アメリカのグリフィス(William Elliot Griffis)が日本に留まって1882年に発刊した『隠者の国 韓国(Corea:The Hermit Nation)』という本だ。この本でグリフィスは韓国の古代社会で老人を生きたまま埋めてしまう高麗葬と山神や海神に人を生贄として捧げる人祭が盛んに行われたと叙述した

だが、グリフィスは歴史学でなく自然科学を専攻した学者で、日本政府の招聘で東京帝国大学の前身である東京開成学校で講義しており、日本が主体になって朝鮮から迷信と専制王権を追い出して西欧文明とキリスト教を導入しなければならないと主張した人物だ。彼は韓国を一度も訪問していない状態で日本の資料にのみ依存して韓国の歴史と風習について叙述したが、韓国に対する偏見に基づいて一部の説話の内容をあたかも歴史的事実であるかのように歪曲して叙述した。

「出処もなく、朝鮮に対する歪曲した視点を持っていた外国人が書いた本に登場する高麗葬の話が、客観的な事実だと見ることは難しい」‐韓国の学者の主張

そして、日帝強占期に『棄老説話』*が、様々な説話集と絵本などで紹介されながら、高麗葬という風習があたかも歴史的事実のように扱われ始めた。1919年に三輪環が出した『伝説の朝鮮』と1924年と1926年に朝鮮総督府と中村亮平が出した『朝鮮童話集』などにこの説話が収録された。(2冊の本に載せられた物語は中国の『孝子伝』に載せられた原穀説話*に由来すると伝えられる。すなわち、中国の伝説を我が国のことのように変身させた日本によって刻印されたのが高麗葬という話である。

以後、1948に発刊されたイ・ビョンドの『朝鮮史大観』、1963年に発表されたキム・ギヨンの『高麗葬』という映画などを通じて、こうした認識がさらに広がった。

*棄老説話:息子が老いた父を捨てるために山中に入って行き、背負って来た背負子を置いて戻ろうとすると、彼らの後についてきた息子の息子がお父さんを捨てる時に使わなければならないと言い、背負子を再び持って行こうとする。その言葉に大きく悔いた息子が父を再び家に連れて行って奉養したという話。

*原穀説話:原穀の父が年老いていた原穀のおじいさんを車に載せて捨てようとし、原穀がお父さんを捨てる時に使うと言いながら車を持って行くのを見て、心を入れかえたという話。

◇サプライズ「高麗葬はなかった」

「我が国の墓を盗掘するための日本の小細工」‐チェ・イナク仁荷大教授

日本が私たちの民族の誇りを落として劣等感を与えるために高麗葬という悪習があったと広めたという意見が多い。それなら、日本はなぜ高麗葬を利用したのだろうか? 我が国の文化財を強奪するためにどんな行為もためらわなかった日本は、私たちの殉葬の風習を知っており、墓の中の物を強奪するために高麗葬を利用したという。儒教文化が強かった我が国で墓を暴くことは有り得ないことだった。これに対し日本は「朝鮮は高麗葬という低級な文化があったし、この墓は高麗葬を通じて作られた墓なので暴いてもかまわない」という式の小細工で盗掘を行ったというのだ

「高麗はむしろ孝の国」‐ソル・ミンソク講師

韓国史の講義をしているソル・ミンソク講師もあるテレビ番組で『高麗葬』の誤った認識について説明した。彼は「高麗は親を捨てず、むしろ孝の国であった。高麗の法律を見ると最高の刑罰が反逆罪と不孝罪だったほど」とし「70歳以上の老父母を奉養する家族がいない場合、刑罰を保留する。また、流刑中に父母の喪にあえば休暇も与えた」と述べた。ソル・ミンソクは「老いた親を背負子で背負って捨てることと知られている高麗葬、だが、これは日帝強占期を経て歪曲された歴史」と付け加えた。

高麗はどんな国であろうか?

『太祖王健』などの史劇で多くの人に知られているが、「高麗はどんな国だったのだろう?」と考えると、ほとんど『ワン・ゴン(王健)』のみ思い浮かぶ人が多いだろう。

高麗(918~1392)は王健が新羅末に建てた王朝で、918年に建国され、34代恭譲王まで475年間存続した。ワン・ゴンは泰封の王クンイェ(弓裔)の部下であったが、918年にクンイェを追放して即位して国号を高麗、年号を天授とした。開京(現黄海道開城市)を首都とし、936年、後三国時代を形成していた韓半島(朝鮮半島)を一つの国家に統一した。王権より地方土豪勢力が強力だったが4代光宗に至って奴婢按検法*と科挙制度を実施して王権が強化され、中央集権体制が確立された。対外的には中国、日本と交流し、遠くアラビアとペルシャまで貿易をした。

11世紀には、契丹族の侵入を受けたがカン・ガムチャン(姜邯賛)の亀州大捷(1019年)でこれを破り、大覚国師・義天(ウイチョン)を通じて仏教が本格的に流入しながら仏教を崇尚する国家になり、仏教が最も全盛期を迎えた。12世紀に入って権力闘争と内紛が激しくなって武臣政変(庚寅の乱)が起き、王権が弱まって武臣が支配する時代となる。13世紀にはモンゴル族が建てた元国の侵入を受けて全国土が疲弊化し、国力が衰退し始めた。

31代恭愍王が即位して王権を立て直して国力を強化しようとしたが、彼の政策が失敗に終わって王権が崩れ、民心が急激に悪化していった。これに武臣だったイ・ソンゲ(李成桂)と彼の策士であったチョン・ドジョン(鄭道伝)らが主導する政治勢力によって1392年に滅亡した。

*奴婢按検法:良人であったが奴婢になった人を調査して再び良人になれるように措置した法。

高麗の葬儀文化

仏教の影響が強かった高麗時代の葬儀は埋葬と火葬が主をなした。死体を焼いた後、その遺骨を寺刹に保管する火葬がほとんどであり、王たちは主に火葬せずに墓を作って埋める埋葬をした。官吏の墓は生前の官職に基づいて墓の大きさと高さがそれぞれ定められていたので、むやみに大きくすることはできなかった。高位層は殉葬といって貴重品と生活用品などを一緒に埋めた(人も)。一部の下位階層は風葬といって死体を風によって自然腐敗されるように山の中などに葬った。(風葬は死んだ人の死骸を葬ることであるため高麗葬の証拠と見ることはできない。)(機械翻訳 若干修正)


あいかわらず「日帝」は便利なキーワードのようですね。