(朝鮮日報 2016/08/14)

 丙子胡乱(1636-37年の清の朝鮮侵略)の際、敵と同じくらい百姓に憎まれた人物が鄭命寿(チョン・ミョンス)という朝鮮人だった。捕虜になったものの清の言葉を学んで敵将の通訳官として朝鮮に戻り、幅を利かせた。朝鮮の内情を清に密告し、朝鮮の忠臣を死に追いやり、奸臣と結託して国政を牛耳った。朝鮮が国防に力を入れようとすれば飛んでいって告げ口するため、誰もが震え上がった。彼に賄賂(わいろ)を渡し、妻の親戚の官奴婢にまで官職を与えた。朝鮮には忠臣が多かったが、大国の権威を笠に着た鄭命寿らにはかなわなかった。

 1895年の乙未事変は、日本が朝鮮の王妃(第26代国王・高宗の妃・閔妃)を殺害した野蛮な国家犯罪だった。だが、見たくない部分がある。朝鮮人の加担者だ。禹範善(ウ・ボムソン)は王室を守る訓練隊の大隊長だった。その彼が日本の軍人に王宮の門を開いてやり、殺害の現場を護衛した。前日、日本の公使に蛮行を催促したのも、斬りつけられて息を弾ませていた王妃に火をつけたのも禹範善だという記録がある。だが正義はまだ生きているようだ。大国にすりよってよい暮らしを手に入れた鄭命寿、禹範善ともに同胞の手で殺されたのだから。

 もっとも、はるかに論争の多い人物は興宣大院君(李昰応。高宗の実父)だ。彼は日本軍の護衛を受け、王妃殺害時に王宮に入った。日本側は、彼を利用して事件を王宮内の暗闘に見せかけようとした。強制的に連れてこられたという説も、積極的に動いたという説もある。ともかく、結果的に彼は日本を助けた。世の中を見る目は暗かったとしても、愛国心だけは透徹していた人物が、なぜそんなことをしたのだろうか。国をすっかり忘れてしまうほど「自分たちの中の敵」が憎かったのだろうか。

 朝鮮王朝末期から大韓帝国までの旧韓末と呼ばれた時代、日本は韓国のことが手に取るように分かった。わざわざ密偵を使わなくとも、情報がどんどん入ってきた。党派の争いから締め出された人々が吐き出す恨み言を聞くだけで、丸分かりだった

 日本に牙をむいていた親清・親ロ勢力が、時代が変わるや顔色を変えて走り寄った。清の思想家、梁啓超は「強いものばかりを見て、ひたすら自分を庇護してくれるものに従った」と、韓国を批判した。大国を後ろ盾に互いに食い争っていたため、百姓たちは国が潰れても悲しめなかった。

 大国が朝鮮を篭絡(ろうらく)する方法は単純だった。内部の対立に油をたっぷり注ぎ、互いに争わせて自滅させたのだ。親日派が親清派を殺し、親ロ派が親日派を殺し…。そのうちに愛国者がいなくなると、国を手に入れた。100年ほど前の日本がそうだった。

中国の帝国主義の歴史は2000年を超える。内部の分裂を助長し、鎮圧するという「夷(い)をもって夷を制す」の戦略が染みついていた。

そんな歴史を十分に知っていながら、韓国社会は米最新鋭地上配備型迎撃システム「高高度防衛ミサイル(THAAD、サード)」をめぐり再び分裂している。本当に、宿命なのだろうか。鮮于鉦(ソンウ・ジョン)論説委員


後のことを考えず、目の前の敵にどんな手口を使っても勝てば良いと考える性格ですね。