(中央日報 2016/04/08)

3日午後、仁川市富平区(インチョンシ・プピョング)プヨンロ21-81の一帯。高いマンション建物の間で、低層の古くて小さな家90軒余りが連なっている。コンクリート壁は塗りがはげて一部は崩れ、相当数の建物の屋根が落ちていた。門扉は大人1人が入るのにも狭苦しかった。空き家のドアを開けて入ると13平方メートル程度の小さくて暗い部屋が見える。建物の片隅には、カギのかかった共用トイレがある。「三菱列社宅」だ

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この列社宅の保存問題をめぐる議論が真っ最中だ。見た目が良くないので完全撤去すべきだという主張と、改装を推進する区庁が対抗している。

またもう一方では、列社宅地域に歴史記録版を設置すべきだという学界専門家の主張と「住居空間を観光商品にする」という居住民が対抗している。

三菱列社宅は日帝強制占領期間である1938年に機械製作会社の弘中商工が労働者を受け入れるために作った宿舎だ。建物が列をなしているようだったので「列社宅」と呼ばれた。1942年に軍需物資補給工場を運営していた三菱重工業が買収した。当時1000人余りの韓国人労働者が列社宅で生活していた。光復(解放)後に日本が退いた後も、相当数の労働者が列社宅に住んでいた。古かったが賃貸料が安く1950~60年代には貧しい音楽家たちが集中的に暮らしていたこともあった

列社宅は当初1000軒余りの規模だったが、今は87軒だけが残っている。このうち50軒余りは空き家だ。残りの37軒に1人の高齢者と基礎生活受給者ら40人余り(住民登録上では70人余り)が暮らしている。自己所有または賃貸形態だ。

列社宅は、古い外観などで都心の荒れ地になりながら近隣住民たちは「すぐに撤去して開発すべきだ」と主張している。火災発生の危険性が高い上に、地域がスラム化して被害が大きいから撤去しようということだ。富平区は2018年までに45億ウォンをかけて三菱列社宅の住居環境を改善する「過疎地域事業」を推進している。人が暮らしている住宅はリフォームと一部の空き家などは撤去して、共同トイレやコインランドリー、共同作業長などにする事業だ。

学界の要人を中心に「列社宅の歴史性を保存すべきだ」という声もある。誠信(ソンシン)女子大学のソ・ギョンドク教授研究チームは最近「三菱列社宅の前に案内板を立てる」と発表した。強制徴用の歴史を後世に伝えるべきだというのがソ教授側の主張だ。

列社宅に住む住民は「人が暮らしている場所を観光地にする」として反対している。列社宅で20年暮らしたというある住民は「一日に何度もカメラをもった人々が訪ねてきて家の周辺を撮る中で、生活にならないほどだ」として「案内板までできたら、そんなことがもっと増えることではないのか」と語った。実際、列社宅はメディアに紹介された後に訪問客が増えて住民たちが生活に支障をきたしていると吐露しているという。

ソ教授側は先月30日に説明会を開いて趣旨を説明した

だが全住民のうち12人だけが参加した上に、賛否が交錯して結論を出せなかった。金正薫(キム・ジョンフン)富平歴史博物館学芸研究家は「趣旨は良いが、住民たちとの共感が形成されていない状態で推進される中で反発を買うことになったようだ」として「いまだに社宅に人々が暮らしているだけに、慎重なアプローチが必要だ」と話した。富平歴史博物館は専門家たちが参加する富平地域の歴史記録作業をしているが、列社宅住民らの反発で、富平2洞のほかの地域から研究に着手することにした。

ソ・ギョンドク教授は「時間がかかっても住民たちに『歴史性の保存などのために案内板の設置が必要だ』という立場を伝え続けて説得する予定」と話した。


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