(メディア今日 韓国語 2015/06/25)

「とんでもない話だ。昨日KBSが報道した文書は北朝鮮や朝鮮総連(在日本朝鮮人総連合会)の捏造だ。KBSの従北赤(共産主義者)があんな形に転じたのだ。歴史と真実を知らなければならない。」

イ・スンマン(李承晩)元大統領の息子の妻であるチョ・ヘジャ(曺惠子 1942年生まれ)女史は25日、メディア今日との通話で、KBSの『イ・スンマン政府、朝鮮戦争勃発直後に日本亡命打診』リポートとに関してこのように主張した

メディア今日は、このリポートに対する立場を聞くため『建国大統領イ・スンマン博士記念事業会』に電話をし、これに対し記念事業会はチョ・ヘジャ女史につないだ。チョ・ヘジャ女史は「昨日のニュースリポートを見て知っている」とし、電話インタビューに応じた。

チョ・ヘジャ女史は「アメリカのアーカイブには、イ・スンマン元大統領が真夜中に夫婦喧嘩した内容まで膨大な資料がある」とし「でも、日本にあるという資料は北朝鮮や朝鮮総連の捏造かもしれない」と話した。

彼女は「日本は私たちが反対した、在日同胞を北へ送還したところ」としながら「北側赤の捏造文書とあり得る。私たちの御親父がそんなことを作成する余地がない」と主張した。

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▲去る2012年3月7日に開かれた歴代大統領の統一関連揮毫除幕式でイ・スンマン元大統領の息子の妻チョ・ヘジャ氏(右側)が夫イ・インス博士とイ・スンマン元大統領の揮毫の前で記念撮影をしている。

彼女は「アメリカで独立運動をし、臨時政府と建国後の初代大統領を務めたイ・スンマン元大統領とその政権の下で『日本亡命』は考えることもできないこと」としながら、いくつかのエピソードを取り出した。

チョ・ヘジャ女史は「私たちの父御(イ・スンマン元大統領)が6・25(朝鮮戦争)時、日本軍を投入させようとしたアメリカ将軍に『日本軍が1人でも韓国の領土を踏むことになれば北朝鮮に向かった銃口を日本に回す』と言った方」としながら「このお方が日本亡命を計画したというのは絶対に有り得ないこと」と強調した。

チョ・ヘジャ女史はまた「マッカーサー将軍が仁川上陸作戦前、水原飛行場に着いた時、父御は『将軍の靴が私たちの農民が植えた稲を踏んでいる』と言い、マッカーサー将軍が『閣下、申し訳ない』と言った場面もある」として「私たちの父御が熱心に戦ってくれと言った話も出てくる」と話した。

チョ・ヘジャ女史は「このお方はアメリカの将軍が撤収しようという時も『私たちは最後の1人まで共産軍と戦う』、『我が国を戦場として提供できないと台湾軍参戦も出来ないように防いだ』」と強調した。

総合すれば、イ・スンマン元大統領は当時、北朝鮮との戦いに全力を尽くすという意志、日本軍を韓半島(朝鮮半島)戦争に参戦させないという意志が強かったというのが、チョ・ヘジャ女史の話だ

チョ・ヘジャ女史は「このような方がそのように(日本亡命要請を)するはずがない」と話した。

また、この文書を報道したKBSには色論(赤かどうか)を突きつけて反論した。

チョ・ヘジャ女史は「KBSは従北赤の巣窟」と断定し、「ドキュメンタリーなどを見てもそうで、真実を言わなければならないのにそうではない。大韓民国の歴史のアイデンティティを無視してあのようにしては大変なことになる」と話した。

チョ・ヘジャ女史は「以前にKBSで1945(ドラマ『ソウル1945』)という変なものを作って、私たちが告発したこともある」とし、KBSを『従北赤の巣窟』と強調した。

一方、KBSは去る24日の『ニュース9』でイ・スンマン政府が朝鮮戦争当時、日本政府に「6万人の亡命意思」を打診し、日本が『韓国人避難キャンプ』の計画をたてたとしながら日本側文書を単独で公開するリポートを報道した。(機械翻訳 若干修正)


イ・スンマンと義理の息子イ・インス、チョ・ヘジャ夫妻の親子のつながりは↓

(略)
◇イ・スンマン(李承晩)、イ・インス(李仁秀)、イファジャン(梨花荘)

イ・スンマン(李承晩)は1960年4月27日に下野して1か月余り後の5月29日にハワイに発つ。それから5年余り経った1965年7月19日に逝去したイ・スンマンの遺体は、7月23日に帰国し、ひとまずイファジャン(梨花荘)に安置され、同月27日に銅雀洞の国立墓地に安置される。

宝城高校、高麗大学経営学科を卒業したイ・インス(李仁秀、1931年9月1日生まれがイ・スンマンの養子として公式に入籍したのはは1961年11月13日。入籍1か月ぶりのその年12月13日にハワイに行ってイ・スンマンと初めて対面する。その後、頻繁にハワイを行き来して父子間の情を交わして臨終もしたという。

イ・スンマンは朝鮮の第3代国王太宗の長男である譲寧大君の16代孫。全州李氏宗親会は61年6月に最初の養子入籍問題を議論、17代孫のうちで英語ができ、未婚である人を探した末、当時大学院生だったイ・インスを適格者に選んだという

彼はイ・スンマンの養子になった後、「いくつかの大学に専任として入る機会があったが、そのたびにイ・スンマンの息子ということのために挫折した」としながら「ある大学はお父様の恩恵を大きく受けた人々が総長や教授だったが、政権が変わると冷遇したよ」とある新聞とのインタビューで明らかにしたことがある。

イ・スンマンは4.19(1960年4月19日に起きた民衆デモ。これをきっかけに大統領辞任)以前に当時のイ・ギブン(李起鵬)国会議長の息子イ・カンソク(李康石)を養子として入籍したが、イ・カンソクが4.19後に父イ・ギブンと母パク・マリア(朴瑪利亜)を銃で撃って殺し、自ら命を絶ったために後嗣がない状態であった。

梨花荘は現在、『雩南李承晩博士記念館』として使われている本館とその他の付属建物の他にイ・スンマンが制憲国会で大統領に当選して4日めの1948年7月20日に組閣本部を設置し、初代内閣を構想した組閣堂が残っている。

イ・スンマンは解放された祖国に戻った後、起居する家がなくて敦岩荘、麻浦荘などを転々として安定した生活をすることができなかったが、周囲の助けで1947年10月に梨花荘に移った後、大統領になって景武台(現在の青瓦台(大統領府))に移る前まで住んだ。

夫人フランチェスカ・ドナー(Franziska Donner、韓国名:李富蘭(イ・ブラン)。1934年にアメリカで結婚)女史はイ・スンマン逝去後ひとまず祖国オーストリアに戻り、1970年に永住帰国、息子夫婦の扶養を受けて梨花荘で晩年を送り、1992年3月に92歳で世を去った。

1968年に結婚したイ・インス博士と夫人チョ・ヘジャ(曺惠子 1942年生まれ)女史は膝下に2人の息子をもうけた。(機械翻訳 若干修正)

1931年09月01日:イ・インス生まれる
1942年    :チョ・ヘジャ生まれる
1950年06月25日:朝鮮戦争勃発。
1960年05月29日:イ・スンマン、ハワイに発つ。
1961年11月13日:イ・インスがイ・スンマンの養子として入籍。
1961年12月13日:イ・スンマンとイ・インスがハワイにて初めて対面。
1965年07月19日:イ・スンマン死亡。
1968年    :イ・インスとチョ・ヘジャが結婚。

彼らだから知り得ること、または否定できることがあるような人達ではないようですね。

2015年06月25日


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