(ブルーコリア 2015/04/20)

子供たちをしっかりと育てられないことのうちの一つはまさに“無理強い”(または駄々)を受け入れることである。今でも大型マートや食堂に行けばたまに見ることができる。

おもちゃの前で手の付けようがないほど泣きながらおもちゃ買ってほしいと駄々をこねる子供とか、様々なお客さんがいる食堂で騒々しく騒ぐ子供たちだ。問題は両親である。子供たちを統制しないためだ。結局、こうしたことの影響なのか分からないが、私たちの社会に一つの現象のように位置しているのが『集団無理強い』だ

集団無理強いには法と常識が通じない。自己主張のみがあるだけだ。現実的に不可能なことであっても駄々をこねるのだこうしたことを統制しなければならないのは“法と裁判官”である。ところが、私たちの現実は裁判官がむしろ助長するように見える時がある。最近、ノ・ムヒョン葬儀の時、イ・ミョンバク大統領に向かって叫びながら飛びかかった民主党の386議員(386世代:1990年代に30代で、1980年代に大学生で学生運動に参加し、1960年代の生まれの世代)に2審裁判所は無罪判決を下した。まるで様々な人が集まる場所でぐずって駄々をこねる子供を叱るどころか、よくやったと褒め称えた格好だ。こういうものが集まって社会全般的に“手の付けようがない群れ”“集団無理強い”が日常化しているのである。

もちろん、イギリスやアメリカの西側先進国や日本ではめったに見ない現象だ。私たちとは違って無理強い(手の付けようがない群れ)が通じない日本の歴史の片鱗を紹介しようと思う

日本の戦国時代末期、直江兼続の有名なエピソードの中の一つだ。直江兼続について簡単に説明するとこんな人物である。直江兼続は豊臣秀吉の5奉行体制の5大大名(五大老)の一人である上杉家の家臣であった。

彼は徳川の独走を防ぐために豊臣の家臣である石田三成とともに一種の集団指導体制である5奉行制度に着眼したのである。最終的に徳川に対する対立点は関ヶ原の戦いにつながることになるが、その中心に立った人物である。戦国時代に直江兼続が身を置いていた上杉家は『義』を標榜するほど戦国時代には独特な大名であった。

その彼に有名なエピソードがある。兼続の部下の一人が農民を殺した。するとその農民の家族が抗議をしながら、死んだ農民を返してほしいと要求をした。死んだ人をどのように再び返すことができるだろうか。

兼続はありのまま謝罪をして、お金を与えて事態を解決することで合意を見ようとした。しかし、農民はずっと死んだ人を返してとだけ言うのみであった

そうすると兼続は死んだ人を返すことはできないから、代わりにあなたが行けと言って家族の首をはねた

それから家族の首を川辺に梟首し、『この人に死んだ人を返した。直江兼続』と立て札を掲げた。

私たちの一般的感性では受け入れ難い一面があると見えるだろう。しかし、別の味方をすると、とんでもない無理強いは通じない日本という一断面を垣間見ることができる部分でもある。(機械翻訳 若干修正)


江戸時代の随筆『煙霞綺談』によると、あるとき、兼続の家臣(三宝寺勝蔵)が下人(五助)を無礼討ちした。

すると、その遺族たちが兼続に「あれの粗相は何も無礼討ちにされるほどのものではなかった」と訴え出た。

兼続が調べてみると遺族の訴えの通りだったので、兼続は家臣に慰謝料を支払うように命じた。しかし遺族たちは下人を返せと言って譲らない。兼続は「死人は生き返らないのだから、慰謝料で納得してくれないか」と言ったが、遺族たちはあくまでも下人を返せと言い張る。

すると兼続は「よしわかった。下人を返して取らそう。だが、あの世に遣いにやれる者がおらぬゆえ、すまぬがそのほうたちが行ってくれぬか」と言って遺族3人の首をはね、その首を河原に晒してその横に立て札を立て、そこに「この者どもを使いに出すから死人を返せ 慶長二年二月七日 直江山城守兼続判」と閻魔大王への嘆願書を書いたという。(ウィキペディアより抜粋)


日本と韓国(朝鮮)の違いは、韓国の為政者側が「謝罪をして、お金を与えて事態を解決」するような統治をせず、道理も際限もなく命と糧を奪い続けてきたから、民衆側は道理も際限もなく叫び抗い続けるしかなかったんじゃないのかな。

ところでこの記事はセウォル号遺族に対して言っているんですよね?


戦国武将フィギュア 直江兼続
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