(参議院議員・和田政宗オフィシャルブログ 2015/02/04)次世代の党

昨日の参議院予算委員会質疑より

宮城県栗原市の東北道若柳金成インター出入口付近にある「安重根記念碑」の案内板について指摘。

これは宮城県が設置したもの。

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私から、「韓国・朝鮮の人や安重根と縁がある人が私的に看板を設置しているのでしたらとやかく言うつもりはないが、日本にとっては暗殺者で、「犯罪者」と政府も認めている人物の記念碑の案内板を、税金を使って設置するのは問題ではないか。速やかに撤去すべき。これは、観光政策の観点からも、公共機関が、暗殺者の記念碑はこちらですよ、と案内している訳で、あまりにおかしいと思う。国交大臣はどのように考えるか」と質問

太田国交大臣は、「設置した県で判断すべきもの」と答弁。

私から「観光行政を管轄する国土交通大臣として指導できないのか」とさらに問いましたが、「県が判断すべきもの」との答弁は変わらず

あとは、宮城県がどのように判断するかです。

大田国交相の答弁全文(↓動画より)

太田国交相 「ご指摘の案内板は宮城県が設置したいとなり、道路管理者としての宮城県の道路占用許可を得て平成12年より現在の場所に設置をされているというふうに承知をしています。このため当該案内板の表示内容や設置及び撤去につきましては宮城県において判断されるべきものであると考えます。」

太田国交相 「えー観光というよりも、先ほど申し上げた答弁の通り、宮城県において設置したものであって宮城県で判断すべきものと、このように考えます。」




ICの位置と設置場所↓

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↑の案内板の続き↓
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お寺入口は左側
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ネットを見ると、これ以外にもいくつかあるようですね。

大林寺とアン氏の縁↓

 安重根義士祭る宮城県大林寺の住職「寺は倒壊したが位牌は無事」
(東亜日報 2011/03/18)

「大地震でしたが位牌と記念碑は無事です。本当によかったです」

安重根(アン・ジュングン)義士の位牌と記念碑を安置し、多くの韓国人観光客が訪れる宮城県栗原市の大林寺が、今回の地震で大きな被害を受けたことが分かった。大林寺の斎藤泰彦住職(75)は17日、東亜(トンア)日報の電話取材に対して、「お寺の建物がほとんど倒壊し、寺の墓もすべて壊れるなど、これまで経験した中で最も大きな地震が起きた。安義士の位牌も倒れたが、壊れることなく、きれいに磨いて保管している」と話した。安義士の記念碑は2メートル深く埋められているので、被害を受けなかった。

大林寺に安義士の位牌と写真が安置されたのは、安義士が伊藤博文を狙撃して中国・旅順の監獄に収監された時、看守を務めた日本の憲兵、千葉十七氏の故郷がここにあるためだ。安義士の人柄に感動した千葉氏は、1921年に故郷に戻り、処刑直前に安義士から受け取った遺墨(生前に残した文字や絵)「為国献身軍人本分」と位牌を家に祀った。千葉氏が亡くなった後、遺族が遺墨と位牌などを大林寺に納めた。大林寺は、安義士の誕生日の9月2日には、毎年追悼法要式を行っている。

安義士関連の品物は無事だが、寺は大きな被害を受けた。斎藤住職は、「今回の地震で、韓国が日本に多くの援助をしていると聞いている。心から感謝し、今回の災害を早く収拾するために、最善を尽くします」と話した。


碑文を宮城県知事が書いているくらいですから筋金入りですね。

 大林寺
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〒989-5505 宮城県栗原市若柳大林町裏219

顕彰碑(安重根と千葉十七の追念碑)
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 安重根義士と千葉氏の顕彰碑文

 国の衰亡を見たって義兵を興し救国の英雄となった大韓義兵軍安重根参謀中将(1879~1910)時に1909年(明治42年)10月韓民族の主権を奪う日本の大陸侵攻の先鋒と見られた伊藤博文公は彼の手のもとハルピン駅頭に殉じた。

 比の事件は日本にとっては痛ましき国家元勲の死であり韓国にとっては悲願とする民族保持への止むにやまれぬ義挙であった。相対立する比の現実の中で総督府陸軍憲兵の任にあった本郷出身(栗駒町)千葉十七氏(当時25歳)は旅順獄中に囚の身となっていた安重根義士(当時30歳)を看守する役目にあった。

 実直にして正義に厚き東北人の一人であった千葉氏の目に映った獄中の安義士の挙動は正に国の運命を憂い民族の独立と名誉を守るため身を捧げた清廉なる人格の士であり時に語る平和への高邁なる理念には強く胸を打たれた。義士を称える事が公然とできぬ当時の情勢にありながら千葉氏は義士に同情を禁じ得ず心ひそかに尊敬の念さえ抱くに至り出来得る限りの労を尽くして、やがて刑場に消えゆくであろう其の身を惜しんだ。

 義士もまた、当時の日本人としては珍しい千葉氏の人間性あふれる知遇に応え3月26日死に赴く直前、軍人たる千葉氏にふさわしい一文を墨して贈った。曰く

為国献身軍人本分(国のため身を献げるは軍人の本分なり)

 千葉氏長じて帰郷の後も義士の遺影と墨書を仏壇に供え日々香を献げ死せる人の冥福を祈るとともに日韓両国の独立した名誉ある親善と平和の来らん事を祈念して若柳町大林(旧大岡村)に死した。きつよ未亡人もまた其の意を体し比れに夫の遺影を加え夫のなせるが如く日々香を献げ冥福を祈りつつ世を去った。千葉夫妻の行える美挙は死後にも其の一族に強く訴えるところあり、幾多の困難にあいつつも千葉氏の意を汲み義士の遺墨を70年間に渡って大切に保管し続けた。

 戦後新しく独立したアジアの友邦たる韓国の発展を冀いつつ1979年安重根義士生誕100周年の祝典を聞き意を決した三浦幸喜くに子夫妻ら千葉十七氏の遺族は東京韓国研究院を通して故国の首都ソウルに鎮座する安重根義士崇慕館に比の遺墨を供えた。

 国にとって貴重なる遺品を其の国の国民に還したこの挙を記念し安重根義士並びに千葉十七氏の稀なる篤行を顕彰すべく日本の文化人、政治家、日本居住韓国人並びに宮城県の有志たちにより千葉氏の眠る若柳町大林寺に比の碑を建立した。

安義士の命日に際し日韓両国永遠の友好を祈念して

1981年3月26日 宮城県知事 山本壮一郎


これをきっかけに県議員の動きが起こると良いですね。

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