(NHK 2014/06/02)

戦後70年 両陛下のパラオなど訪問を検討

来年、戦後70年を迎えるにあたって、天皇陛下が太平洋戦争の舞台となったパラオなど太平洋諸島の国々を戦没者の慰霊のため訪れる希望を示され、宮内庁が天皇皇后両陛下の訪問について検討を進めていることが分かりました。

関係者によりますと、天皇陛下は、来年、戦後70年を迎えるにあたって、戦没者の慰霊のため、パラオなどかつて日本が統治していた太平洋諸島の国々を訪れる希望を示されたということです。

パラオは、マーシャル諸島やミクロネシア連邦とともに太平洋戦争の舞台となり、これら3つの国では、日本軍だけで合わせて4万6000人余りが犠牲になったとされています。

両陛下は、戦後60年にあたる平成17年、天皇陛下の強い希望で太平洋の激戦地サイパンを訪問されましたが、当時も検討されたパラオなどへの訪問は、相手国の受け入れ態勢が整わないなどとして見送られました

天皇陛下は、その後も、太平洋諸島で亡くなった人たちへの思いを抱き続け、パラオなどでの戦没者の慰霊について再び強く希望されたということで、宮内庁がパラオを含む太平洋諸島の国々への両陛下の訪問について検討を進めているということです。

訪問の日程は、戦後70年の節目にあたる来年の8月15日より前の時期で検討されていて、宮内庁は、相手国の受け入れ態勢や交通や警備の面での課題について、今後さらに検討を進めるものとみられます。


パラオなど太平洋諸島とは

パラオをはじめ、マーシャル諸島やミクロネシア連邦は、東京から南に数千キロ離れた太平洋の島国です。サイパンと同様、第一次世界大戦で占領した日本が、終戦の頃までおよそ30年にわたって統治し続けました

多くの日本人が移り住み、この地域を管轄する「南洋庁」が置かれたパラオをはじめ、いずれも太平洋戦争で軍の拠点となりました。

しかし、終戦の前年になるとアメリカ軍の侵攻を受け、パラオではペリリュー島など南部の2つの島で激しい地上戦となり、日本軍がほぼ全滅しておよそ1万1000人が死亡しました。

パラオ、マーシャル、ミクロネシアの3か国で犠牲となった日本人は、軍人だけで合わせて4万6000人余りに上り、ペリリュー島とマーシャルのマジュロ島には、日本政府によって戦没者の慰霊碑が建てられています。

いずれの国も、アメリカの統治を経て独立しましたが、日本人の血を引く人たちが大勢暮らし、歴代大統領には日系人もいて、親日的な国として知られています


天皇陛下 海外戦没者への思い

天皇陛下は、海外での戦没者やその遺族にも心を寄せ続けられています。

天皇陛下は、戦後50年を迎えた平成7年、「慰霊の旅」で国内各地を回り終えると、宮内庁の幹部に、太平洋諸島を訪れて戦没者の慰霊をしたいと話されるようになりました。

これを受けて実現したのが、戦後60年にあたる平成17年の天皇皇后両陛下のサイパン訪問でした。

天皇陛下は、出発前のおことばの中で、「海外の地において、改めて、先の大戦によって命を失ったすべての人々を追悼し、遺族の歩んできた苦難の道をしのび、世界の平和を祈りたいと思います」と述べられました。

皇后さまも、この年、海外で亡くなった戦没者に寄せる天皇陛下の思いについて、「南太平洋の島々で戦時下に亡くなられた人々のことを、深くお心になさっていらっしゃいました。外地のことであり、なかなか実現に至りませんでしたが、戦後60年の今年、サイパン訪問への道が開かれ、年来の希望をお果たしになりました」と文書で述べられました。

宮内庁は当時、パラオをはじめ、マーシャル諸島とミクロネシア連邦への両陛下の訪問も検討しましたが、これらの国については、相手国が受け入れ態勢を整えるのが困難だとして訪問は見送られました。

しかし、天皇陛下はその後も、太平洋諸島で亡くなった人たちへの思いを抱き続け、ことしに入る前から、パラオなどでの戦没者の慰霊について再び強く希望されていたということです


両陛下戦没者慰霊の歩み

天皇陛下は、一貫して先の大戦と向き合い、皇后さまと共に各地で戦没者の慰霊などに当たられてきました。
戦後50年を迎えた平成7年には、「慰霊の旅」に出かけ、まず、被爆地の広島と長崎で、原爆による犠牲者の霊を慰められました。

続いて、住民を巻き込んで激しい地上戦が行われた沖縄を訪れ、沖縄戦最後の激戦地、糸満市で戦没者の墓苑に拝礼されました。

この前年の平成6年には、小笠原諸島の硫黄島を訪れ、飢えや渇きに苦しんだ戦死者を思い、慰霊碑に水をかけ白菊を供えられました。

戦後60年には、太平洋の激戦地サイパンを訪問されました。多くの日本人がアメリカ軍への投降を拒んで「天皇陛下万歳」と叫びながら身を投げた、「バンザイ・クリフ」などを訪ね、遺族らが見守るなか、黙とうをささげられました。

両陛下の外国訪問は、通常、相手国からの招待を受け国際親善のため行われますが、戦没者の慰霊を目的としたこの訪問は、天皇陛下の強い希望で実現した前例のないものでした


特定アジアではありませんが、最近「来年は戦後70年・日韓国交50年なのに日韓関係はこのままなのか・・・」というような主張が日韓のメディアによく出たり、世界水フォーラム(2015/04開催)にかこつけての「皇太子訪韓」などの話も出ているようなので。

記事にもありますが、戦後60年にパラオなどをご訪問できなかったこととサイパン訪問のご様子を侍従長の書籍から↓

サイパン島への慰霊の旅

 戦後五十年の「慰霊の旅」が終わってしばらくすると、陛下から、いずれ、南太平洋の島々を訪れて戦没者の慰霊をしたいというお話がありました。南太平洋は先の大戦の激戦地だったところで、政府がいくつかの戦没者慰霊碑を建立しています。現在、「東太平洋戦没者の碑」がマーシャル諸島のマジュロ島に、「西太平洋戦没者の碑」がパラオ共和国のぺリリュー島に、そして「中部太平洋戦没者の碑」が北マリアナ諸島のサイパン島にあります

 陛下が、この地域を訪ねたいと思われたのには、もう一つの理由もありました。それは、この地域に、日本人の血を引いた人たちが多く住んでいるということです。第一次大戦の後、日本は、それまでドイツ領だったこの島々を、国際連盟の委任を受けて統治することになりました。これらの島々は「南洋群島」と呼ばれ、現在のパラオ共和国に南洋群島を統治する南洋庁が置かれていました。大勢の日本人が移住して定着し、その人たちの血を受けた子孫が今も暮らしています。例えば、パラオ共和国にクニオ・ナカムラという大統領がいましたが、こうした日系人に対する思いも陛下のお心にはあったのだと思います。

 その後、陛下からは、折りに触れて、この島々へのご訪問の話が出ましたが、両陛下のご訪問ということになると、どの国も小さな島が点々とあるだけなので、なかなか難しそうです。ただ、本当のところは、行ってみなければ分からないということで、平成十六年になって、宮内庁、外務省、警察庁から現地調査に行きました。行ってみると、やはり、どの国の政府も思っていた以上に小さく、これでは、ご訪問は相手の国に大きな負担をかけるばかりで、国際親善という観点からはかえって望ましくないだろうということになりました。陛下は、すぐにご納得になりましたが、程なく、あらためて「来年は戦後六十年でもあり、サイパン島にだけでも行かれないものか」というお話がありました。現地調査の結果を見てもこれは可能なことと判断されましたから、すぐに準備に入りました

 サイパン島は、昭和十九年六月、太平洋を西に向かって進撃してきた米軍の猛攻撃を受けました。六月十一日から猛烈な空襲と艦砲射撃にさらされ、十五日には米軍が上陸しました。その後、制空権と制海権を失って孤立していた日本軍は、二十日以上にわたって死闘を繰り広げましたが、七月七日、万策尽きて玉砕し、島は、米軍の手に落ちました。日本軍の戦死者は約四万三千人。島に残留していた民間人では、子供を含む約一万二千人が命を落としました。米軍も三千五百人近くの戦死者を出し、九百人を超えるチャモロ族などの島民が戦闘の犠牲になりました。サイパン陥落をきっかけとして、沼津に疎開しておられた陛下は日光に移られ、サイパンを基地とするB-29爆撃機の日本本土空襲が始まりました。

 さて、サイパン島ご訪問は、平成十七年の六月と決まりました。サイパン島は米国領ですが、米国政府からは喜んでお迎えしたいとの意向が示されました。ご訪問に先立って、いろいろの準備がありましたが、ほかの外国ご訪問にはなかったことは、防衛庁の防衛研究所第一戦史研究室長から、サイパンでの戦闘について二回にわたってご進講を受けられたことと、遺族会やマリアナ戦友会などの代表にお会いになったことでした。

 サイパンで戦死した人の長男や弟、サイパンでの戦いから生還した元兵士、戦前のサイパンでの民間人の生活を知る人など九人の代表が御所に集まって、両陛下に自分たちの経験をお話ししました。私も同席していましたが、両陛下が、長時間かけて皆の話に真剣に耳を傾けておられたご様子が今でも目に浮かびます。

 平成十七年六月二十七日のご出発当日、羽田空港で外国ご訪問のための出発行事がありました。米国という外国に行かれることになるからです。外国ご訪問にあたって、陛下は出発のお言葉を述べられるのですが、このときはそれまでの外国ご訪問のときとはまるで違っていました。いつもは、訪問先の国々との友好親善関係の増進に尽くしてきたいという短いお言葉なのですが、異例の長文を読み上げられたのです。まず、サイパンでの戦闘の犠牲者について詳しく述べられ、戦後五十年に当たって慰霊の旅をされたことを話された後、「この度、海外の地において、改めて、先の大戦によって命を失ったすべての人々を追悼し、遺族の歩んできた苦難の道をしのび、世界の平和を祈りたいと思います。私ども皆が、今日の我が国が、このような多くの人々の犠牲の上に築かれていることを、これからも常に心して歩んでいきたいものと思います」と述べられました。

 羽田から三時間あまり、サイパンに到着すると、ちょうど夕立が上がって、いかにも南洋らしい生暖かい湿気が体にまつわりつくような感じでした。夕方、両陛下は、現地に先着していた遺族会、マリアナ戦友会の代表とお泊まり先のホテルでお会いになりました。もともとは、ホテルのホールに四十人ほどの代表が整列しているところに両陛下が入られ、皆の前に立たれると、代表者がご挨拶をし、陛下から一言お言葉があって、両陛下とも退出されるという予定でしたが、両陛下は、ホールに入られるやいなや、整列している代表に近づかれて、端から一人ずつ話しかけ始められるではありませんか。身内が戦死したその島で両陛下にお目にかかって感極まった人もいたようでした。そうして、十分の予定が三十分近くになりました。

 翌日の早朝、予定されていた行事の始まる前に、ホテルの前の砂浜で、サイパンの戦闘に参加して生還した二人の元兵士から、米軍が上陸してきたときの状況をお聞きになりました。二人が、砂に腹ばいになって死んだふりをしていたことなどを身振り手振りでご説明するのを、両陛下とも、じっと聞き入っておられました。そのうちに、皇后さまが、元兵士の話に合わせて、そっと砂に手を当てたりしておられましたが、早朝のきれいな海の広がる景色のいい所であるにかかわらず、両陛下とも、最後まで、景色を見ようともなさらず、もっぱら二人の老兵士の話に集中なさっていたのが印象的でした

 その後、両陛下は、まず、政府の建立した中部太平洋戦没者の碑に拝礼をされた後、その後ろにそびえる高さ百メートル以上の絶壁、スーサイド・クリフの上まで登られて深く黙禱をされ、続いて、島の北端のバンザイ・クリフの崖の上で、眼下の海にしばし見入られた後、同じく深い黙禱をなさいました。これらの崖は、追い詰められた日本人が次々と身を投げたとされる場所です。その頃には日も強くなって、とても蒸し暑い中でのお祈りでしたが、南洋の青い海に向かって深く頭を垂れて黙禱をされる両陛下のお姿は、忘れることのできないものでした。最後に、帰途、朝鮮半島出身者の慰霊碑と沖縄県出身者の慰霊碑に拝礼をされて、一旦ホテルに戻られました。一区切りの後、今度はアメリカ慰霊公園に行かれ、犠牲になった現地島民のためのマリアナ記念碑と、戦死した米国軍人のための第二次世界大戦慰霊碑に拝礼をされました。慰霊公園に着かれた頃、激しいにわか雨が降ってきましたが、碑に向かわれるときには傘をお断りになって、濡れながら拝礼をなさっていました

 最後に、両陛下は、敬老センターという老人のためのデイケア・センターを訪問なさいました。いつも高齢者のための施設をお訪ねになるときのように、お年寄りの音楽演奏やダンス、民芸品の製作などをご覧になりましたが、音楽演奏で、ちょっと思いがけないことが起こりました。というのは、お年寄りたちが、ニコニコしながら、「海ゆかば水漬(みづ)く屍(かばね) 山ゆかば草生(む)す屍 大君(おおきみ)の辺(へ)にこそ死なめ かへりみはせじ」と歌いはじめたのです。これは、戦時中の出征兵士を送る歌「海行かば」です。この人たちにとっては昔から歌っている懐かしい歌であるに過ぎないのだろうとは思いながらも、この場所で、こういう機会に、この歌にめぐり会うとは、と様々な思いが胸をよぎりました。

 両陛下は、端然と歌声に耳を傾けていらっしゃいました。驚いたのは、われわれの世代であれば誰でも知っているこの歌について、同行していた若い記者の人たちが「あれは何の歌ですか?」と聞きにきたことでした。【渡邉允著「天皇家の執事 ― 侍従長の十年半」P269-275】


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